て、座談会に出ていた一人である私は関心をひかれた。
 女自身が自分に責任を問う必要があるということは、本当にそのひとの云う通りであると思う。そして、それが本当であるという理由からも、何故女は男よりも人生への責任感がはっきりしないのか、その原因にふれて考えてみることが無駄でないのを思う。
 例えば私たちがデパートに行って、すこし何かこみ合ったことを訊く。すると殆ど例外なしに訊かれた女店員は、一寸お待ち下さいと云って、売場のどこからか男の店員をつれて来るだろう。連れて来られた男の店員の方が大して女より年嵩だというのでもないことが多い。それにもかかわらず、男の店員の方は、客の問いに対して専門家として実際的な返答が出来たのである。そんなとき女の店員が傍から、その返事をきいていて、次の折にはそのような問いにまごつくまいとしている様子はない。彼女たちは完全に客をその男の店員にゆずって、そして任せて、自分は気を放してしまっている。知らないままにのこっていることに、安《やすん》じている。これは何故だろう。
 或る出版会社に勤めている若い男の友達がこんなことを云った。うちにも何人か若い女のひとが働いているんだけれども、女って、どういうのかな。男は同じところに働いていて自分だけ仕事をあてがわれずにいたりしたら、それを苦痛に感じるんです。女のひとも同じ気持だろうと、察したつもりで間がわるく手があいたりしないように絶えず何か割り当たるようにすると、女のひとはどういうわけか余りよろこばないんだな。ちっとも遊ばせて置かないって云うんです。
 その一寸した感想も、なかなか女の仕事や生活に対する一般の態度の機微にふれている。女のひとの感情がそんな風に動く原因はどこに在るのだろう。
 数ヵ月前にある婦人雑誌で職業婦人の月給調査を試みたことがあった。あらゆるところで女の給料はやすかった。或る百貨店で初給が男より十七銭か女の方がやすくて、原則として対等にしていたが二三年後には男の方がぐっと上になってしまう。その店のひとの話では、どうしても男の店員は生活問題が痛切ですから仕事の上に責任も感じますから、とこういう相異を必然として語っていた。
 ちっとも遊ばせて置かない、と云う女のひとの心持には、どうせ興味もない機械的な仕事なのに、という思いが裏づけられているのだろうと思う。どうせこれっぽっちの給料でこんな詰らない仕事をしているのに、遊ぶゆとりもなくちゃやりきれないわ。きっとそんな心持があるのだ。
 なるほど、女のひとはトレーサアなどやっても、非常に末梢的に使われて、朝出勤するときょうはどこそこで何をやってくれ。そして、明日はと全く別なところへ移動させられ、技術は只迅いとか仕上げが奇麗とかいうところでだけ評価され、決してそのひとがより精密な高度なトレーサアとして成熟してゆくような機会はなく、こきつかわれる。給料は勿論やすい。やすいからこそ女があらゆる部面でつかわれている。
 それが歪んだ人間の使いかたであるからと云って、その歪みを生き身にうけて、云って見れば自分たちの肉体で歴史の歪みをためてゆかなければならない私たち現代の女が、歪みのままに自分の気持を萎《な》えさせて、どうせ、と云ってしまったら、どこから自分たちの成長の可能がもたらされよう。
 せめて遊ぶ暇ぐらい、ねえ。そう呟く心持は、逆な方向と表現で、どうせ女は、という旧来の通念を我から肯定しているにほかならない。仕事の上で女として自分を守ったり主張したりするというのは、こういう、どうせ[#「どうせ」に傍点]に立脚した態度とは反対のものでなければならないと思う。女自身が女として仕事、人生に責任をしっかりと執って、そのことで周囲がその女のひとに対する責任を、おのずから知られるよう、そういう生きかたを自分に課さなければならないと思う。
 保守的な女のひとも、先ず女が自分の責任を十分知らなければ云々、と云った。その場合意味されていることは、要求するより先に課せられた義務を果せ、という内容づけであった。そして、彼女たちは課せられている義務が女にとってどんな苦しいものか或は重圧か、ということには省察を向けなかった。
 今日、私たちが、責任を知るというとき、しろと云われたことは何でもやる、死んだ思いでするという判断のない服従からの行為を意味するのではなくて、人間として、職業婦人としての生活をしているものとして、するべきこととしない筈のこととの判別を明瞭に自覚してゆく意味だと思う。
 せめて遊ぶ余裕ぐらい、とどこかに肱をついているような自分の心持を自身で見なおしてゆく態度、それが責任だと思う。
 恋愛についても、結婚生活についても、このことはやはり云える。自分の生きかた、心持に責任を感じていなくて、どうしていい恋愛や結婚が出来よう。第一、いい恋愛とかいい結婚生活とかいう、その判断の自分としてのよりどころを、どこにおいていいかもわからないだろう。
 この責任という感情は、人間のいろいろの感情の発達の、最も高い段階に属する感情の一つである。未開人は責任の感情というものが極めて粗朴の状態におかれている。人間生活への思意が複雑明瞭になって来る度につれて、さながらしずかにさしのぼる月の運行に準じてあたりの山野が美しい光に溢れて来るように、人間の美しい精神の輝きとしての責任の感情もひろく、深く、大きいものとなってゆくのである。
 こんなに未熟で、格別のとりえもないような私たちが、やはり女の全歴史にかかわる責任のもとに生きているのだと云えば、対象は大きくて架空のように響くかもしれない。だけれども、ありとあらゆる思想にしろ、情感にしろ、行動にしろ、それが現実のものであるならば、ことごとく私たちの肉体を通じて生かされてのみ初めて現実として存在するという事実は何とつきない味いのあることだろう。自分の一生を生きるのは自分であって、ほかの誰でもない。この一事を、深く深く思ったとき、私たちの胸に湧く自分への激励、自分への鞭撻、自分への批判こそ一人一人の女を育て培いながら、女全体の歴史の海岸線を小波が巖《いわお》を砂にして来たように変えてゆく日夜の秘められた力であると思う。
[#地付き]〔一九四〇年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
   1940(昭和15)年6月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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