の意味で何かやらなければならないという場合、とりつきやすいのは目の前の見た目に立つ趣向である。浦和からの娘子行進にしろ、目に立つことでは成功したろう。けれども、そこから生れた後味、それによってこそ行進した方の真の感激も、行進をながめたものの感銘も、それからのちの生活感情のなかで美しく消化されてゆくはずの後味が、心理的にふっきれないものをのこしたとすれば、それはむしろ益より害があったということにもなるのである。
 指導というようなことは口でいったこと、形でやっていることそのことよりも、心理にのこされる後味の深さ、その影響のよさについて考慮されるべきものだろうと思う。
 雄々しい生きてとして若い時代が成長して行かなければならないということは、女の子がたけだけしくなることでないのは自明である。団体さえ組めば何でも優先権をとれる、という昔とはちがった世渡り上手のこつ[#「こつ」に傍点]を会得させることでもないと思う。団体行動の流行は、一人一人の人間としての向上に細かい目を向けないで、ただそこへくっついていさえすればいいのだからという逃避の無責任さを、一層細心にとりのぞいて行かなければなるまい。
 若い娘たちの行進の美しさと心をたかめる力は、そこに肉体の若さが溢れているというばかりでなく、希望をもって、秩序をもって日々に生かされている新しい生活の輝きがてりはえるからこそであると思う。背景をなして、若い人々の生活の満ち漲った熱意と着実な営みとが感じとられたとき、その行進は、感動的なものとなるのである。
 若い娘たち、妻たち、そして若い母たちはこれからますます群れを組み、街上を行進する機会を多くもつのだろうが、そういう行進が自分たち女の生活とどんな密接な意義をもっているかということについて考えてみるだけの自主の力は大切であると思う。真に自分たちらしい行進をおこなってゆこうとする落付いた日常の心のうねりが尊ばれなければなるまいと思う。[#地付き]〔一九四一年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「オール女性」
   1941(昭和16)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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