とって本当に可哀相と思う。疲れて浦和へかえったとき、彼女たちの心にはたして出発のとき燃えていた明るいたのしい気分が、たっぷりつぐのわれてあっただろうか。
何となし東京の人間なんて、という感じが心の片隅にのこされたのではなかったろうか。銀座なんか歩いているような者たちは、と、訓話などできいた話を思いおこして、自分たちの木剣姿に向けられた街の表情を憎悪することはなかっただろうか。
私たちは、若い娘さんたちの純情を思いやって、浦和の娘さんたちを気の毒に思うとともに、そういう形での行進を迎えなければならなかった東京の市民も気の毒に思う。なぜなら、そういう行進を考えついた人が娘さんと市民との間にいたわけなのだから。もし娘さんたちが自分たちの相談で決定したのなら自分たちの若い心をそういう風に表現するのがいいことだと日頃から思うような教えかたをされているわけで、そのことのために、やはり娘さんたちへの可哀想さは減らないのである。
無意味な馬鹿らしいことも、それとしらずにまじめでやって行くところに若い純な心のねうちがある。それだからこそ、若い人たちを指導する立場にいるひとは慎重で常識を明らかにして、その若さのよさを笑いものにするようなことがあってはなるまいと思う。
新体制という声は、若人よ立て、という響をおこしたけれど、このことは実際生活の中でどんな形であらわされているだろうか。
たとえば四国の方のある女学校では、夏の炎天でも日傘をさすことをやめさせたという記事をこの間読んだ。
四国というと、私たちには暑い地方という感じがある。田舎の女学校の生徒であってみれば歩く時間もかなりあると思える。日にやけた顔色はよいけれど、それで衛生にいいのだろうか、もし炎天下のむき出した頭が衛生によいのだとしたら、どうして毎夏脳炎の流行期に、頭をむき出して炎天にさらしていないように、と特別の注意がされて来ていたのだろう。女学校の女の子は年も稚く、肉体の変化も激しい時期であるし体質もさまざまであろうと思う。一様に日傘をささないというようなことは、外見の上では一つのジェスチュアであるけれど、健康の上にどれだけ有益なのだろう。
校長だの教師だの団体の指導者だのというひとは、当分の流行に対してよく吟味検討してみる必要がある。自分たちの思いつきに対してひろい実際の視野から再考してみる必要がある。対外的
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