を読んでも、全体的に感心したり、好きになったり、無条件でその人のものを読むようなことはありませんでした。以前ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」を読んでかなり感心したことがありました。そしてまた今、「マソー・レンチャンテッド」(訳名アンネットとシルビー)を読んでおりますが、まだほんの初めですから、はっきりしたことはいわれませんが、私はこの作者の見方や、感じ方についても、或る疑いを抱いております。
私は小説を書くことが好きでもあり随分根気のいい方ですから、幾度も書き直しもします。誰でもいうように初めの書き出しは一番苦心します。百枚以上のものでしたら、初めの二十枚位、短かいものでも三四枚は、やはりその一篇の足場になるところですから、書き出しの具合でどうにも筆が伸びなくなることもあります。しかし、いわゆる文章(描写?)には余り拘泥しません。私のはいつも、ある材料について、その対象をいかに巧く書くかというのではなく、いかに見、いかに感じたかということが主眼なのです、そして表現は自らそれに伴なってくるものという考え方です。そういう点、里見さんの「内容と表現」というあの言い方がうなずけます。つまり才能的な技巧的な文章でなく、その人の持つ本質的な文章という意味です。
今のところいわゆる心境的なものばかり書いておりますが、或る時期がくると、戯曲など書いてみたくなりはしないかと思います。そういうのは極めて自然な気持で、人生に対する見方や、気持の上に、あるいい意味での余裕ができた時に、そういう興味が起るもののような気がします。自分にもいつかそんな時がくるかも知れないし、やってみる場合があるかも知れないと思われます。
最近二三、顔を出しましたけれど、私は余り会合などに出る方ではありません。大概どこの会でも男の方と、女の方とがすっかり別々にかたまり合ってお話していて、そのどちらかへ一人でも男の方か、女の方かが入ってくると、妙に取澄ましてしまうという風で、実際変に窮屈な気ばかりして、つい出席することが嫌になるからです。もっとああいう場合、男と女とが、自由な気持で話の交換ができたらといつでも思います。単に会合というような機会だけに限らず、お互が心置きなく雑談できるような小さいグループもできれば結構だと思います。私など小説を書いているというだけで、文壇的な交際というものは殆んどありません。女の人では野上さんとか、網野さんとかいう方がありますけれど、そして、私が強いて求めない気持もありますけれど、男の方としては一人もないといっていいと思います。
旅行は大好きですからよく一人で出かけます。ずっと以前、まだ結婚しない時分はたびたびしましたけれど、やはり家庭を持っていた時は何彼につけて不自由で、つい余り出ませんでしたが、この頃はまた時々、参ります。先日も九州まで行ってきましたが、旅の楽しさはまた格別です。
[#地付き]〔一九二六年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「文章倶楽部」
1926(大正15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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