それ故、歩くのが平らかに行かない。どうしても、きく、きく、と足が捩くれる。きくり、とする度に、ぴったりと形に適った鞣皮をぱんぱんにして、踝が突出る。けれども、その位の年頃の女の子はおかしいもので、きく、きく、しながらそのひとは一向かまわず、而も得意で廊下や段々を昇り降りする。私は日向の廊下に腰をかけ、空の乾いた傘棚に肱をもたせながら、思い極まった顔をしてその後姿を眺める。天気のよい日、磨かれた靴が特に光り、日を照り返して捩くれるのを見ると、私の心は云いようもなく重く悲しく、当のない憤懣を感じずにはいられないのである。――思うと笑わずにはいられない。
先生や友達の個人的な思い出は抜き、次に印象深いのは、お昼休み前後の光景である。
想っただけで、私の前には、あの輝く空と、波のように砂利を踏む無数の足音、日を吸って白く暖い廊下、笑声、叫ぶ声が聞えて来る。御弁当を持たず、家が近所の人は帰るので、教室から出て来たばかりの時は、まだまだ運動場はからりとしている。小さい女の子はお手玉をとりとり大きな声で謡をつけ、大きい女の子は、廊下の気持よい隅や段々の傍で、喋り笑い、ちょいと巫山戯《ふざけ》て、追いかけっこをする。けれども、だんだん子供が帰って来、入り乱れる足音、馳ける廊下の轟きが増し、長い休の中頃になろうものなら、何と云おうか、学校中はまるで悦ぶ子供で満ち溢れてしまう。
四十分か五十分の日中のお休みは、何といいものであったろう! 鐘が鳴るのに、まだ、まだ時間はあるというくつろぎ、云い難い甘美がある。朝は薄寒いようで、賑やかでも引緊った空気は、昇る太陽につれて膨み機嫌よくなって来る。手に触り体が触れるあらゆる建物の部分は、幸福に乾いてぽかぽかしている。見えない運動場の隅から響いて来るときの声、すぐ目の前で、
「おーひとおぬけ、おーふたおぬけ、ぬけた、ちょんきり、おじゃみさーあくら」
と調子をつけて唱う声々の錯綜。――
その声と光に包まれながら、自分が廊下をゆっくり、ゆっくり歩いて行く。大人のような気になり、前後左右のものを観察し、その心持を感じ、悦びは感じながらも手持ち無沙汰な有様で歩いて行く。メリンスの、雲と菊の模様のある羽織を着、処々色の褪めた紫紺の袴を穿いた自分の様子は、どんな風にその場合見えただろう。鍵の手に曲った廊下を行くと、突当りの一寸左に、弟の教室があった。
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