波がどうであろうと、一見民衆の生活にかかわりないようないきさつに置かれている。動力の科学的進歩のことにしても、自動車がガソリンでなく薪で走って、坂にかかると肥桶を積んだ牛車に追いこされるという笑話が万更嘘ばかりでもない今日、現象として科学の発達のよろこびは皮肉と苦笑とを誘って実感から遠いものとなるのはやむを得まい。台湾旅客機エンボイ機が台北の北方七星山麓で遭難して八名の乗客操縦者全滅したのは三月十二日ごろのことであった。「日航」は当日の暴風と濃霧によって進路測定に誤差が生じたことを遭難の原因として詳細に地理的に報告した。そして「民間航空発展の貴い人柱」となった人々への哀悼、遺族への慰問の責任を表明した。けれども、当時あの新聞をよんだ一般市民は、阿佐操縦士の妹きくえさんの言葉をどう受けとっただろう。きくえさんは、涙に頬を濡して、「無電がついていなかったんでしょうか。無電があったら、兄は決して事故を起すような人ではなかったんですのに」と記者に語ったのであった。「日航」が、真に、科学的にこの悲しい事故の責任をとるならば、この悲痛、切実なきくえさんの問に対して、全国民に答えるべきではなかったろうか。エンボイにはどんな無電設備があったか、遭難後の状況で、その設備の有無が認め得たか得なかったか。美辞麗句の哀悼の詞より、死者を瞑せしめるのは、偽りないその点への科学的な追究の態度であったろうと思う。
 この感想を私は或る新聞の短文にかいたら、あの飛行機は台湾のなかだけ翔んでいるので云々と云ってかえして来た。これも妙だと思われる。私たちの科学上の低い低い常識でさえ、旅客機として翔ぶからには、人命に対する責任上台湾の中だからとて無電なしでいいとはうけがい難い。或は他の何かの理由で民間の機は無電のことについてふれてはいけないとでも云うのでもあろうか。
 現在の複雑な内外の事情は、科学の日常的な応用面に様々の矛盾と混乱、低下と秘密とを生ぜしめていて、それは科学上の理由ではない他の政治、経済の諸事情によって支配されている。
 こういう時期こそ、科学性はその原理的なものへの愛と興味で家庭教育のうちにもとりいれられ、民衆のなかにも培われなければなるまいと思う。この必要は、卑俗にされた文学作品が氾濫し得る時代にこそ、益々文学性というものの追求が妥協を排して行われなければならないという文化の問題と全
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