を辿り、現在では高等数学の相当のところまで行っている。その娘さんが女学校を出てから更に専門の教育をうけて、婦人数学者になる希望をもっているかというと、お母さんはそういう希望がなくはないが、娘さんは普通の結婚をしようという心持らしい。人生に対する娘さんのなだらかなその心持はいかにも好感がもてるのだけれど、そこには何となしもう一寸ひっかかって来るものが残されていて、そういう一つの女の才能が、娘さんの人生へのなだらかな態度と渾然一致したものとして専門的にまで成熟させられ切れない、現在の女の社会での在りようや文化の性質に思いが致されるのである。
 家庭における科学教育ということも、つまりはこういうところにかかっていると思う。夏休みには植物採集をさせますとか、科学博物館へつれてゆきますとか云う、それだけが厚みの全部ではないと思われる。
 つい三四日前のことであったが、夕飯のすんだ餉台のところで、家のものと夕刊を見ていた。丁度『日の出』という大衆雑誌の広告が出ていて、そこに一つの字が目をひいた。本多式貯蓄法、林学博士本多静六。広告にそうかかれている。よほど以前にもこの博士の節倹貯蓄に関する法を語った文章を大衆的な雑誌でみたことがあったが、私は一種の感慨をもってその広告を眺めた。林学博士と云えば、農学の一部で、それは自然科学の分野に属す学問上の博士ということであろう。その人が、林学について語らずに、貯蓄法について語っていることを、吾もひともみっともない妙なことと感じない感覚というものは、日本のどういう文化・科学性を語っているのだろうかと思った。林学専門なら山がよく鑑定されるわけだろう。その直接間接の売買は、現在の経済の組立ての中では金銭上の富を意味している。どんな樹木の山はいい価で利益もある。というなら同じ卑俗さにしろわかりもするが、その現実はふせて、炭の空俵一俵でどれだけ米を炊くことが出来るかというようなところから、物の不足は感謝のみなもとという風な、道義化された説がなされていることは、二重の恥辱であると思った。
 科学についての知識が大衆の間にどのようにうけとられているかというその驚くべき低さと、各専門の人々がその点に対してどんな見解をもっているかという最下級の典型が、この本多式貯蓄法にあらわれている。
 一部の科学者そのものの科学性の低さは、又別の形をもとっていると思う。ホ
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