実を明瞭にしようとする時期を通っているのであると思う。
女性そのものの成長のそのような願いは激しく、しかも実に極々のむずかしさに遭遇していて、その表現としての文学作品にさえ、現代の婦人の生きる姿に蒙らされている何かの傷痕が見えている有様である。
子供のための本を書く女性というものの出現は、そのことがただ女であるからとか、物を書くのが好きだから、というだけで期待されたら、間違いであろうと思う。そのひとは、やはり人間の未来の発展というものについて一つの靭《つよ》い情熱を感じていなければ、何によりどころをおいて次の世代のつくりてである子供たちに希望をかけ、浄らかな焔を点し、目ざまさせてやることが出来るだろう。人間の精神の自然な合理の力を知らないで、どうして子供たちに、条理の明らかなものごとの美しさを語ることが出来るだろう。
子供の読みものを書く大人の感情のうちにある幾通りかの感傷を、これからのその分野で活動しようとする人々は、真面目に考察し直し、そのような沈湎の中から歩み立って来なければなるまいと思う。
大人は子供の世界を心に描くとき、現在大人として日々の生活に疲れもし痛みもしている情緒の未だ無垢なりし故郷として、何となく回顧風に、優しい思い出の調べを添えて感じる癖がある。子供のための本をかく人は、同じ女性でも、小説を書く女性より、所謂《いわゆる》やさしい人のように予想されたりする。その先入の感情から脱けられなければならないと思う。
ほんとうに立派な子供のための本をかける女性というものの、心の内部は確《しっか》りとしたものであって、その精神の一面では、今日小説を書いている幾人かの婦人作家が持っている文学の世界の意味をも洞察し、云いかえれば、それらの婦人作家が子供のためのものを書かない歴史の意味を、共に感じるだけの自身のひろがりと成長の意志を持っていいのだと思う。
一人の女性はそれを小説に書く、それと根本は通じた願いによって、自分は子供のために書く、それが自身の表現であるというところまでの自分への納得がもたれたらうれしいと思う。子供のために書く、そういう婦人が出なければならない。
子供のために書かれる文学が、文学の全体からみるとその作者の文学的資質のただ一般的な低さとか弱さとかいうような関係であらわれるとすれば、それはその国の文化として悲しいし、愧《はずか》し
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