幸な一日本海軍武官が神経の故障から何か個人的問題を起した。モスクワの或る新聞が社会面にそれを書いた。海軍武官はやがて日本の新聞もそれにならうであろうこと、それによって失われるであろう自分の名誉という強迫観念によって、古典的なサムライの手法をもって生命を絶った。当局者の一人がその時、事件に対するヨーロッパ人らしい意外の感じを外交的表現によって云った。――私共はあんな並木通新聞《ブリヴァールナヤ・ガゼータ》なんぞのぞいたこともないので――
 |並木通り《ブリヴァール》を歩くと云うことがある。これはソヴェトで「|私の知り合い《モイ・ズナコームイ》」という言葉と同様二重の意味をもっている。
 ホテルの台所である。正面に白樺薪で沸かすニッケルの大湯沸しが立っている。テーブルがある。まだ洗われない皿がそこに山と積んである。あたりは小ざっぱりしているがそれ等の皿の上をのぼったり下りたりして蠅がうんと這っていた。蠅は、電燈の下で皿がうごめくように黒くしずかに這いまわっている。
 そういうテーブルの片隅で、日本女が砂糖のかたまりを胡桃《くるみ》割でわっていた。砂糖はパン、肉、茶、石鹸、石油などと一緒に人
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