幸な一日本海軍武官が神経の故障から何か個人的問題を起した。モスクワの或る新聞が社会面にそれを書いた。海軍武官はやがて日本の新聞もそれにならうであろうこと、それによって失われるであろう自分の名誉という強迫観念によって、古典的なサムライの手法をもって生命を絶った。当局者の一人がその時、事件に対するヨーロッパ人らしい意外の感じを外交的表現によって云った。――私共はあんな並木通新聞《ブリヴァールナヤ・ガゼータ》なんぞのぞいたこともないので――
|並木通り《ブリヴァール》を歩くと云うことがある。これはソヴェトで「|私の知り合い《モイ・ズナコームイ》」という言葉と同様二重の意味をもっている。
ホテルの台所である。正面に白樺薪で沸かすニッケルの大湯沸しが立っている。テーブルがある。まだ洗われない皿がそこに山と積んである。あたりは小ざっぱりしているがそれ等の皿の上をのぼったり下りたりして蠅がうんと這っていた。蠅は、電燈の下で皿がうごめくように黒くしずかに這いまわっている。
そういうテーブルの片隅で、日本女が砂糖のかたまりを胡桃《くるみ》割でわっていた。砂糖はパン、肉、茶、石鹸、石油などと一緒に人別手帳によって一ヵ月に一キロ半買うことができる。けれども、かたまりが大きくてそのまま茶のコップには入れられない。胡桃割は割るべき胡桃とともに今モスクワじゅうの金物屋から姿を消しているから、ホテルの台所で、ホテルにもたった一つのその道具をかりて、日本にはない砂糖わりという仕事にとりかかる。
(大体ソヴェトのホテル住人ぐらい、台所と、率直な家庭的関係を保っているものはあるまい。※[#始め二重括弧、1−2−54]英語の通訳、ドイツ語の通訳が玄関を飛び交うサヴォイやグランド・ホテルは例外である。そこは、ソヴェトのただ狭い客間である※[#終わり二重括弧、1−2−55]。一九二八年代、どこのホテルの廊下ででも給仕男が大きな盆に茶や食物やをのっけ、汗だくで運んで行く恰好を見ることが出来た。むかし築地小劇場がたくみな模倣でゴーゴリの検察官を上演した。あの劇中でも金のないフレスタコフのあなぐら部屋へ靴の裏みたいなあぶり肉をそれでも給仕が運んで来たじゃあないか。あの通りだった。一杯十カペイキの茶でも呼鈴《リン》を鳴らされると、給仕男は手にふりまわすナフキンとともにエレヴェーターのない四階までのぼって来て、又降りて、盆にのっけて室まで届けなければならなかった。
五ヵ年計画による社会主義建設に入るとともに、モスクワの人民栄養労働組合員達は、労力の合理化を実行した。一般のホテルでは室へ飲食物を運ぶことを全廃した。一九三〇年の給仕男はもう廊下で汗の匂いをかがれる存在ではない。食堂の周囲にだけ出没する。そして、八十近くある室と食堂、台所との間は別な者が歩くようになったのである)。――
朝八時と十時の間。夜は九時から十一時前後、ホテルの黒猫は廊下のエナメル痰壺のわきに香箱をつくって種々雑多な色の靴とヤカンの行進を眺めていた。各々の足音が違うように大小恰好の違うヤカンを下げたホテルの住人が汽車から駅の湯沸所へ通うようにホテルの廊下を往来するのだ。日本女は空色エナメルの丸いヤカンをもっている。
廊下を曲ったところにいつも扉《ドア》をあけっ放した一室がある。そこはホテルに働くものの為の休息室、食堂、職業組合のメストコム、党|細胞《ヤチェイカ》で、一隅には赤布で飾った小図書部「|赤い隅《クラースヌイ・ウーゴル》」がある。文盲者率の最も高い人民栄養労働者が彼らの文化革命と社会主義建設を達成すべき細胞である。
廊下を通る日本女の空色ヤカンは「|赤い隅《クラースヌイ・ウーゴル》」の赤い色をポッチリ鮮やかに映した。隣の出版従業員組合クラブからの赤旗の歌で響くこともある。
砂糖をわりながら日本女は皿洗女としゃべった。皿洗女はやせた髪の黒い女で灰色の上っぱりを着て働きながらよく唄を唄う。
――あああ! もう直ぐいろんな実の時節だ。あなたの国でも桜ん坊や黒苺できますか? なんでもあるんでしょ? あっちでは。
――日本に黒苺あるかしら。――見たことなかった。――おいしいわね、黒苺。歯が真黒んなって閉口だけれど。
――砂糖さえたっぷり入れて煮ればね。
――一月いくら? 一キロ半? やっぱり。
――どっから果実砂糖煮《ワレーニエ》の分が出ます?――
――あなたんところでは今砂糖でも煙草でもみんな外国へ出して機械になるんだからね。オデッサの港には砂糖の山があるって。
――ほらね! そうして「五ヵ年計画を四年で」やりとげるのさ。ここんところ少しひもじい目も堪えとけば、あとでよくなる。
皿洗女は、真面目なようなふざけたようなまたたきをして、首をふった。彼女は臨時雇いである。五十七ルー
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング