子供もったことがありますか? と低い声できいた。
――いいえ、ない。
――私はもったことがある。
――…………。
――でもそれは一九一九年、飢饉の年でね。
彼女は自分自身にむかって云うように云った。
――私を見た教授が、子供を生んで何で養うつもりかと云いました。我々に今必要なのは赤坊じゃない、革命の完成だ、って。――教授は白い髯のいい人だった、真面目な、ね。……我々はこんなことも生き抜いて来たんです。
ターニャは日に日にゆっくり歩くようになり、あおい瞳や潤いある唇に張りきって重い大果物のような美しさを現した。寝たきりでいる視野の前に三尺だけひらいている廊下を横切って、金髪を輝かせながらゆっくりターニャの白いふくらんだ姿が通ると、日本女は真実、母になろうとする女の美と力とをおおうところなく感じた。
ヨーロッパ文明はマリア以来の宗教的感傷をもって、東洋の文化は根づよい家族制度の伝統によって、いずれも母になろうとする女を或る程度まで聖なるものとした。だが、プロレタリアートの現実的な身持女が、何かの美感の対象となり得たことがかつてあるか?「身持ちの神さん」は、東西ともに既に古典的な貧の悲しき漫画材料だ。ブルジョア社会制度の下のプロレタリアート数千万の女性にとって、母性は彼女らにより生き易き権利を与えるどころか、明白に日々の労苦の門だ。生存そのものをさえおびやかしている。
ターニャを見ろ!
日本女は自分の中に眠っている母性がそのために目覚まされ、同じよろこびで熱くうごくのをさえ感じた。彼女の全身をみたしている深い安心、母となろうとする曇りなき期待はどうだ! ターニャの輝きは、とりもなおさずソヴェト社会がどのようにプロレタリアートの母性を護っているかということの照りかえしでなくて何であろうか! と。
労働婦人が姙娠して五ヵ月以上になっている時、労働法によって工場、事務所は彼女を失業させることを許されない。生後十ヵ月以内の嬰児をもっている場合も。(まして、四ヵ月の休暇期間は云うをまたない)
相当の数、労働婦人のいる工場、製作所で託児所《ヤースリ》のないところはない。託児所は朝八時から五時まで。五時から十二時まで。或るところは無料で、或るところは親の収入に準じた実費で七歳までの子供を保護し、食事、沐浴、初等の社会的訓練を与えてくれるのである。乳児のある母には三時間毎に授乳時間を与えられる。朝子供をつれて出勤し、退け時まで、女医と保姆の手もとにある子について何の心配がいろう。
子を産んでその男から捨てられるという悲劇もソヴェトでは女をセイヌ河や隅田川へは行かせない。国民裁判所《ナロードヌイ・スード》へ彼女を行かせるだけだ。民法は、事情によって父親が受ける月給の半額までの扶助料を子供が十八歳になる迄支払う義務を決定している。
万一、男が更に非ソヴェト市民的で、扶助料支払いをいやがり、行衛をくらました時、例えばターニャはどうするか。彼女ひとりの収入ではとても子供の養育はしきれない。法律によって男の親が食糧品か金で子供を扶助する義務をもっている。その親もない場合。
子供は、父と母とのどういう関係によって生れようともターニャ一人の子ではない。生れた以上ソヴェト社会の嫡出子だ。いざという場合はソヴェト国家がその陣営に加えられた幼い一員に対して社会的連帯責任を負う。「子供の家」は最後の網となって経済能力の弱い母の手から脱落しようとする子を社会の成員として受けとめるのである。
女の中に予期された母性の経済的独立を保証する為、離婚法は、女に職業能力がない場合、一年間(その間に女が職業を習得する)生活保証すべき義務を夫に示している。
合法的人工流産は、これ等数種の積極的条件の最後にあって、母性の擁護と秘密な罪悪の防止に役立てられている。
金髪のターニャひとりが、何か彼女の特別な理由で、このように広汎な社会連帯の上に、彼女の若き勤労婦人としての独立、恋愛の自由、母性のよろこびを獲得しているのだろうか? そうではない。ソヴェト全勤労婦人がこの基礎に立っている。プロレタリアートの「十月」は母性と私有財産制のみっともない結びつきを革命的に截断し、がっちり社会主義社会連帯の間に母性を組みなおした。職業組合に属さぬ勤労婦人はない。生れて、彼を社会成員として受けいれる組織をもたぬ赤坊はない。
これだけのことを知って、みなさん、さらに或る晴やかな夏の午後|並木通り《ブリヴァール》の楡の樹蔭をぶらぶら歩いて、そこに眠っている無数の赤坊を見なおそう。
ソヴェトの赤坊だ。
工場の交代時間、託児所《ヤースリ》からあふれる子供の歓声と母親の笑いごえをきけ。ソヴェトの子と母である。
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(一九二八年から一九三三年にわたるソヴェ
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