又降りて、盆にのっけて室まで届けなければならなかった。
 五ヵ年計画による社会主義建設に入るとともに、モスクワの人民栄養労働組合員達は、労力の合理化を実行した。一般のホテルでは室へ飲食物を運ぶことを全廃した。一九三〇年の給仕男はもう廊下で汗の匂いをかがれる存在ではない。食堂の周囲にだけ出没する。そして、八十近くある室と食堂、台所との間は別な者が歩くようになったのである)。――
 朝八時と十時の間。夜は九時から十一時前後、ホテルの黒猫は廊下のエナメル痰壺のわきに香箱をつくって種々雑多な色の靴とヤカンの行進を眺めていた。各々の足音が違うように大小恰好の違うヤカンを下げたホテルの住人が汽車から駅の湯沸所へ通うようにホテルの廊下を往来するのだ。日本女は空色エナメルの丸いヤカンをもっている。
 廊下を曲ったところにいつも扉《ドア》をあけっ放した一室がある。そこはホテルに働くものの為の休息室、食堂、職業組合のメストコム、党|細胞《ヤチェイカ》で、一隅には赤布で飾った小図書部「|赤い隅《クラースヌイ・ウーゴル》」がある。文盲者率の最も高い人民栄養労働者が彼らの文化革命と社会主義建設を達成すべき細胞である。
 廊下を通る日本女の空色ヤカンは「|赤い隅《クラースヌイ・ウーゴル》」の赤い色をポッチリ鮮やかに映した。隣の出版従業員組合クラブからの赤旗の歌で響くこともある。

 砂糖をわりながら日本女は皿洗女としゃべった。皿洗女はやせた髪の黒い女で灰色の上っぱりを着て働きながらよく唄を唄う。
 ――あああ! もう直ぐいろんな実の時節だ。あなたの国でも桜ん坊や黒苺できますか? なんでもあるんでしょ? あっちでは。
 ――日本に黒苺あるかしら。――見たことなかった。――おいしいわね、黒苺。歯が真黒んなって閉口だけれど。
 ――砂糖さえたっぷり入れて煮ればね。
 ――一月いくら? 一キロ半? やっぱり。
 ――どっから果実砂糖煮《ワレーニエ》の分が出ます?――
 ――あなたんところでは今砂糖でも煙草でもみんな外国へ出して機械になるんだからね。オデッサの港には砂糖の山があるって。
 ――ほらね! そうして「五ヵ年計画を四年で」やりとげるのさ。ここんところ少しひもじい目も堪えとけば、あとでよくなる。
 皿洗女は、真面目なようなふざけたようなまたたきをして、首をふった。彼女は臨時雇いである。五十七ルー
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