います。更に彼がすぐれた指導者であったなら、その憧憬、溜息、孤独の感情をよく守り立てて、箇性の力強い潜勢力としてやるでしょう。
困ったことに、田舎の女学校の教師は時にまるで出鱈目の人が多くあります。若い娘達の生活感情に指針を与えるどころか、彼等自身の足許を、彼女等の示す無自覚なだけ却って抑制のない感情の表現によってぐらつかせられます。人格の陶冶されない男性の共通な癖として、若い女性の気持の夢を認めず、男性同様の現実的慾求が暗示されているものとばかり思い込みます。そして、そのように露骨に押しづよく出ると、若い、自分の肉体も心もどんなものかさえ知らない娘達は、異性間の磁力に圧倒され、自分の求めていたのは何であったか、結果はどうなるか、そんなことは一切夢中で、性の渦巻のうちに巻き込まれてしまうのでしょう。こうなると、彼等は教師でも生徒でもなく、一対の男女として批判すべき位置になると思います。教師であり、学生であったというのは過去の一因縁で、互が最も屡々接近する機会を与えた偶然な一つの社会的関係と見られます。要点は、彼等の恋愛に対する態度にあると思います。
相互に真実な愛もなく、一方は無智による無我夢中、一方は醜劣な獣心の跳梁にまかせての性的交渉が結ばれたとしたら、そして、その百鬼夜行の雰囲気が伝染したとしたら、言葉で云えない惨めさです。とがめ、責める先に暗澹とした心持になります。
こう云う、本当のあやまちを少なくするには、どう心掛けたらいいのでしょう。
近頃頻りにいわれる性教育も、補助的知識の一つとしては無いに勝るでしょう。けれども、人間として自分達が出来るだけ崇高に、豊富に、自由な正義、美を持って生きたいという熱意は、生理衛生の知識からだけは湧きません。総ての知識、学問的知識は、根本の真心があって始めて足場となり助け木となって私共の生活を富せます。
両性間の純な徳義、敏感な礼節、美しい共力はどうして得られるか。今日の生活、社会の習慣はまだまだ此等の獲得を困難なものにしています。男性も女性も、第一というところ、最も理想的というところを絶えず目ざしていて、決して雑作なく其処に着き過たということはない時代です。両性の交渉を考えるには先ず人間はどういう生き方をするのが本当かという大きな疑問が来ます。人間として自分は何を目ざして行く気なのだろうか。私はここに根があると思
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