学の五年の二学期の補欠試験に合格している。六高に入った時、「父はじめて喜ぶ」と特記されているのであるが、秋に「父が死去したので、入学を取消し、家事の後始末をするため、荷物を背負って商いをやる。」一九〇八年。「家事整理の傍ら、受験勉強をなし、再び高等学校の入学試験に応ず。学科試験には優良の成績で及第したが、体格検査の時、風邪をひいていたため、病弱修学に堪えざるものとして不合格となる。体格の再検査を願ったが許されなかった。」
一九〇九年。三度高等学校の入学試験を受け、一高文科に入学。
一九一〇年。ある独逸語教授の非常識な採点法によって、学年試験に三十五人のうち十七人落第させられる。その内の一人となる。八月、足尾銅山に遊び、処女作「穴」(一幕物)を書く。この作品は川村花菱氏を通じ伊原青々園の『歌舞伎』にのせられた。
一九一一年。名古屋の或る素人劇団によって「穴」が上演された。その頃学校を休んでは、大入場に入ってよく芝居を見る。以前にはかなり勤勉な学生であったが、落第して以来、勉強する気|頓《とみ》になくなる。この気持大学を卒るまで続く。夏、北海道及び樺太に旅行。
一九一三年。東大独文科選科二年生。学校にも殆ど出席せずふらふらした生活を送る。井上正夫、桝本清氏等と謀り野外劇を創む。
一九一四年。第三次『新思潮』を起す。「女親」(三幕)を同誌に発表。二高で高等学校の検定試験を受け及第。大学の本科生となる。学資欠乏し、郷里の大塚氏より十ヵ月間恩借。
一九一五年。大学卒業。井上正夫を浅草に出演せしむる橋渡しをする。同一座の作者となったが、二月目に意見の衝突をして飛び出し、その暮、秋月、川上、喜多村一座の作者となり、舞台監督をやる。
一九一六年。幕内の生活に堪えられず、これも三月目に逃げ出す。しみじみ自分の無力をおもう。精進の気|遽《にわか》に高まり、岡本市太郎氏夫妻から最少限度の生活費を十ヵ月間恩借。すべてを勉強に打込む。傍らストリンドベリイの「死の舞踊」を翻訳し、洛陽堂から出版。
一九一七年。舞台協会の監督となって武者小路の「その妹」を演出する。この年結婚したが間もなく合意の上離婚。山岸博士の推薦によって早稲田大学の講師となる。
一九一八年。記すべきほどのことなし。ただかなり真面目に勉強し続けていたので、肚の中に何かが漸く発育し始めたような気がする。
一九一
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