ければならない社会の客観的な正義、道義というものと、案外にも喰い違った大小の歯車となって廻転していることを発見するのである。

 この作者の有名な長篇小説に「女の一生」というのがある。今から四年ばかり前、丁度日本では左翼の全運動が歴史的退潮を余儀なくされるに至ったはじまり頃の作である。
 本屋へ行って、「女の一生」とだけ云ってたずねれば、店員はモウパッサンの「女の一生」を持ち出して来るのである。が、この傑作と同じ題をつけたところにこそ、作者山本氏の意気の高いものがあったと思われる。モウパッサンの描いた女の一生ではない女の一生を山本氏は私たちに示そうとしたことは自明である。フランスの旧教の尼僧教育にとじこめられて、白く脆い一輪の無垢な花弁のような貴族の娘が、結婚の第一日から良人に欺かれ、やがて息子にすてられ、悲惨にこの世を終った。そういう受け身な一生ではなく、女が自分から自分の道を選び、それに責任をもち、人間として女として完成しようとする女の計画あり意志ある一生を允《まさ》子の生きかたで語ろうとした作である。
 幼な馴染で好もしく思っている男を親友が愛人としてしまったことから、允子は深く苦しむが、年頃の女には、結婚の外には生活がないように考える世間の習慣に批判をもち、結婚というものも「せいぜい生きて行く上の一事件ぐらいにしか考えていない」という気持に立ち直り、允子は兄の結婚を動機に、医学の勉強をはじめる。允子は自分を一本の牛乳瓶にたとえ、それが一寸した心の動乱で「ひっくりかえらないようにするためには下に重い金の枠をはめる必要がある。むずかしい学問は、むずかしい職業は、いわば重たい金の枠だ。そういう基礎がおかれてこそ、はじめて瓶は一本立ちが出来るのだ」と考える。
 必ずしも全面的に納得は出来ないこういう動機で医学生になった允子は、その専門学校を卒業する近くから、ひどく生活の空虚感、乾燥に苦しむようになり、再び一つの疑問が彼女の前に現れた。「こういう汚い仕事をする人がなかったら学術は進歩しないわけだけれど、しかし自分のような女までがこういうことをやる必要があるだろうか。」男にだって出来るこういうことでなく女なら――女でなくっては出来ないという仕事は――それは何だろう。危っかしい自分に重い枠をかけるのが目的で、むずかしい[#「むずかしい」に傍点]学問である医学を選んだ允子の
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