とりあげられていることを示している。
専門学校程度の教育といえば現在の日本の若い婦人の身につける教育としては最高の部に属している。座談会へ出てそのようなことを述べるという点では、人に臆さないという意味で社会的でもあると思う。それにもかかわらず、一人の女として人生に向ってゆく気魄の点では何一つ生新なものを示していない。かえって年をとっている男の作家の方が現実生活の中へ何か人間として前時代よりも前進したものを求める態度である。教育や目下働いている務め先の知的な性質というようなものは彼女に本質的なプラスの一つともなっていない。世の中に出て働く若い人の数がふえたということや、働く部門の拡大ということとその人たちの生活の実質の高まりとはこのようにも距りをもっているのだということは、私たち女をしみじみと考えさせることではないだろうか。その人にしろ菊池寛の小説は通俗小説だというであろう。けれども生活の根本ではどれだけの相違をもっているであろうか。文化のある時期には、若い人が精神においても若いといいかねるような悲劇が生じる。
教養の常識性はこれとは反対の形でも現れるものだ。例えば森田たまさんの随筆の中には、着物について、住居について、食物について大変趣味の高いような話がたくさん出る。どこそこの何という店の何。私たちの日常の世界にはそう入って来ない店の名や宿の名や食物の名が語られているが、趣味というもの、そういう面で教養と呼ばれるものの本来の姿とはいかなるものであるはずなのだろうか。世間には定評というものがある。その道の人なら誰でも知っているというものもある。その店のものがその店なりによいということは当り前だし、いわゆる通という人たちが、かれこれ比較したりすることも当り前のことだろう。それらのことを、知らないような年齢や種類の人にむかってとかく語ること、そして感服さすこと、それが趣味の本体であろうか。
趣味というようなものは人の心にあっても物の関係でも、何でもないようなところに含まれ発露するところが面白いので、女の味わいというようなものも計らぬところで横溢してこそ意味がある。女形ではできない生きた女が現れる。何でもないようなもののとり合せの間に人の真似られないその人らしさで着物も着、料理もする、そこにその人でなければみられない笑顔と同じような身についた美が発揮されてゆくのだと思う。通ということはそれなりでは趣味でもないし教養でもない。あれこれの通に嚇《おど》かされず自分の本当の好き嫌い、よさわるさを判断としてもっていてこそ趣味があるといえようし、教養があるといえよう。
常識的であるということと実際的であるということとは、目前の結果から物をいって評価するところで互に非常に似通っている。同時にそれが大局的にみて百年の為に何事かを計画するという愉快な気分を失っていることでも互に似通っている。とくに日本のしきたりの中では今日でも男よりも女の方が常識の負担のもとに生きている。家庭生活の中でもいわゆる実際的なことを男よりも多く受持つのであるけれども、それが女の生活における現実の豊かさとして実って来ないのはなぜであろう。面白いお婆さんよりもいやなお婆さんの方が多いというのはなぜであろう。ふざけて男の人たちが、困った事、厭な事を現す字にはとかくどこかに女という字がつくと笑うのはなぜだろう。
常識的であるということと実際的であるということは似ているが、現実的であるということは必ずしも同じ内容をもっていない。現実的であるという場合には、自分の生きている時代の常識の性質やその性質のよって来る社会的な原因およびそれが生活を明るくするものであるか、そうでなくするものであるかということについても考えるだけのものをもっている。考えた結果に従ってある範囲までは自分の態度なり周囲へのおよぼし方なりに何か持ち来たすこともできる。女の人が常識に負かされて悪い意味の実際家になって、年を経るに従ってつまらない人になってゆくのは、彼女たちが現実を充分知っての意味で現実的に成長できない場合にきっと起って来る。同じ常識の埒の中に暮らしても外で働いて経済的に自分の主人となっている男の生活は、あてがわれた家計の中で今のような世の中に辛苦することだけで明けそして暮れてゆく女の実際とは何といっても違ったところがある。
私たちは、そんな辛苦はつまらないと五百円の収入の男を夫としようとするのではなく、その辛苦のつまらなさのも一つ先の社会の波までも見透して、機智とユーモアをも失わず自分たちの幸福を守ってゆこうとしているのだと思う。
いつか婦人の生活と知性ということにふれてかいたことがあったが、常識というものについての私たちの態度がどうであるかということの終りには、やはりほんものの知性の必要が求められてくると思う。[#地付き]〔一九四〇年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
1940(昭和15)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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