心づいた。そうすると、急に恐くなって――今度は確かに恐怖を感じて――さっさと岸へ戻って来てしまった。
青ざめて体中から滴《しずく》をたらしながら、汀に立った三郎の顔へ、近々と自分の顔を近よせながら、
「よくしてくれたな、有難かったぞ」
と山沢さんが云った。
すると、彼は急に、真赤な顔になりながら、大恐悦な声を出して、皆が気味悪がったほど笑ったのだそうだ。
「あのときあ死神にとっ憑《つか》れはぐった」
とそのときを思い出すたびに彼は云う。
自分の心を解剖する力などはもちろんない彼は、その異常な昂奮を、ただその底無しの「魔所」にいる、何かに取っ憑かれたためだと今も思っているのである。
その話を聞くほどの者は皆やはり彼同様の解釈ほか与えないとみえて、自分の一つ話、それは死神に誘われることは、決してないものではないという彼の考えと、実際どこの湖や河にも、きっと一つは「魔所」のあるものだという伝説との、何より確な証拠として、話すのである。彼の黒狐と同様に、ただ奇態なこともあるものという言葉で総括されているのである。
当人の彼の方は、極々さっぱりと片づけているが、山沢さんはさすがに何か感じたらしい。
それから間もなく、始まった普請に就て、大工の宰領から、木材の選択、現場の見張りまで皆三郎に一任された。
九
そのときも山沢さんは例の通り、簡単に仕事の要領を話すと、あとは貴様のいいようにしろと云ったなり、どこの大工を使えとか、左官を使えなどということは、一言も云わなかったのだそうだ。
この山沢さんの度量が、「胆に銘じた」彼は、「旦那様、この俺が引受けました」と云って帰るとすぐ、自分の手の及ぶかぎり、腕こきのものを集めた。
そして、先ずこれならばと思うものが揃うと、今度は彼が先棒となって、泥運びもすれば胴突きの繩も引張る。
大きな体を泥だらけにして、出来上って見なければ、何がどうなるのか分らない彼一流の方法で、小気味よくグングンと仕事を運んで行った。
煙草休みは一時間と定め、土方達が舌を巻くような激しい働き方をしながら、彼は我ながら自分の腕前に、「感歎措く能わず」というような心持になったりしたのである。
彼が御秘蔵のちょん髷を切ったのもこのときである。
汗に塗れ泥に塗れ、おまけに「おがっ屑」まで浴るちょん髷は、一日経つとまるでもう髷だか芥
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