民は、従順で、ヨーロッパでは人間の食べなかった壁の材料も食べさせられた。けれども、一九四八年の日本では、人民解放と民族の自立にかかわるすべての言葉がいつともなしにそのさかさまの内容でつかわれてきているというような現象を、わたしたちはうけいれることができるだろうか。ポーランドや朝鮮は、その民族の悲劇として永年の間自分の国の言葉をうしなわされていた。母国語を奪われているということについて、ショパンは彼の音楽でどんなメロディーを訴えたろう。マダム・キュリーは小学生だったとき、奪われている母国語についてどんな痛苦を経験したろうか。ワンダ・ワシレフスカヤの文学は、ポーランドの人々が真に人民のいのちを生きる言葉としてポーランド語をとりかえしてゆく一歩一歩の間から生れた。
 日本のわたしたちが、こんにち、本質のすりかえられた民主的[#「民主的」に傍点]語彙によって生活させられているとすれば、それは或る意味で、母国語を失ったよりも重大なことである。ポーランドや朝鮮の人々は、母国語を失わされたことによって、はげしい正当な憤りを感じつづけた。愛すべき人民の祖国とその親愛、独特な文化への情熱をめざまされた。その愛と憧れによって彼等は勇気を与えられ、果敢であることができたのだった。一つの国が民主[#「民主」に傍点]憲法をもち、民主的[#「民主的」に傍点]行政機構をもち、民主的[#「民主的」に傍点]労働組合と文化をもち、すべては民主的な表現で話されていて、内実は、ポツダム宣言の急速な裏切りと戦争挑発とファシズムの東洋の露店がつくられつつあるとすれば、その国の人民のおかれた愚弄の位置には堪えがたいものがある。わたしたちの求めているのは平和と生活の安定と人間らしい文化である。その権力の行為にはどんなスウィフトも描き出さなかった諷刺の対象があり、ルネッサンスのシェクスピアのヒューマニズムでは予見さえされなかった悲劇と笑劇のテーマがある。
 わたしたちは、ほかならぬこの日本の土地に生れ、そこに生き、汗と涙と時たまの笑いのうちに、新しい未来をうちひらこうとして奮闘している。そのわたしたちの思いを、わたしたち日本の人民でない誰が語るというのだろう。働きつつ学びたいと希望し、美しさとたのしみと勇気の源泉をなじみふかい母国の風土と生活のたたかいのうちに発見し、それを文学に絵画に、映画に音楽に再現し、発展させてゆこうとする熱意を、わたしたちでない誰がその体の内に熱く感じているというのだろう。
 次第にあきらかにされてくる日本の人民的生活とその文化の運命についての真面目な関心は、多くの人々の精神を鼓舞し、せまい自我の環のそとへふみ出させはじめた。自我の確立の意欲とその表現が、確立するべき自我の社会的歴史的な実体のありようをぬきにして語られつづけているうちに、やがてその言葉さえもいつしかさかさまの内容に逆用されている屈辱にたええなくなったのは、理性の自然である。
 一九四八年の夏に、前進的な日本の意欲が平和と生活と文化のまもりのために意味ふかい一歩をふみだしつつあるとき、崩壊と虚無の選手であった作家太宰治がその人らしいやりかたで生涯をとじたことは、決して単なる偶然ではなかった。[#地付き]〔一九四八年八月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本文学」
   1948(昭和23)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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