モルカらしい労働婦人が足を揃え、雨をかまわず熱心にしゃべりながら歩いて行く。こんなことを云ってる。
 ――馬鹿なのよ! あいつ!
 ――馬鹿って云うより、無自覚だ。だって、もうあの職場じゃ九十五パーセント突撃隊《ウダールニク》じゃないか!
 ソヴェトのプロレタリアートは雨傘なんてなしで「十月《オクチャーブリ》」をやりとげた。一九三〇年、モスクワの群集中にある一本の女持雨傘は、或る時コーチクの外套《シューバ》ぐらい階級性を帯びるのだ。
 歩道の上でかたまってる人影が見え出した。鞣防寒帽子の耳覆いを、赤い頬っぺたの横でフラフラさせた男の子が日本女をつかまえてきいた。
 ――切符もってない?
 又一寸行くと、
 ――余分な切符もってませんか?
 巴里コンミューンの記念祭の夜、ルイコフの名によるクラブへ行ったときも、クラブの入口にいくたりも主に青年がかたまって、来る者ごとに訊いていた。特別な催しがあるときモスクワのクラブでは入場券がいるのだ。
 車寄から劇場そっくりにいくつもの厚い硝子扉が並んでいる。日本女は体じゅうの重みをかけそれを押して入った。バング!
 ほ、暖い!
 外套ぬぎ場があっちとこっちの端にある大きい広間《ザール》は人で一杯だ。さっぱりしたオカッパの頸へ赤い襟飾をかけたピオニェール少女。手に何かプリントをもってその少女と話してる年長のピオニェール少年。芝居行の靴下をはき、オカッパの上へセルロイド櫛をさした若い細君が、時々気にしては新しい藤色フランス縮緬の襟飾に手をやりながら、紺のトルストフカの亭主によりそって四辺を見まわしつつ散歩している。
“905”日本女の受けとった外套防寒靴預番号の真鍮札。
 外にあんな雨と暗い道があるとは思われぬ。
 絶えず人が登り降りしている大階段を日本女は二階へあがって行った。
 とっつきが国防科学協会《オソアビアヒム》の研究室だ。壁にかかってる毒ガス演習の実写、飛行機図解、銃器図解の前へ数人若い男女がかたまって案内の豆電燈をつけたり消したりしているのが見える。「帝国主義トファッシズムニ対抗セヨ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」赤いプラカート。
 戸のしまった種々な研究室が並んでる。が、日本女はモスクワ一大きい鉄道従業員組合のクラブで、今廊下の見学してはいられないんだ。監督を見つけ出さなければならない。今夜の催しのために、彼女のとこ
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