ている。綾子が案外冷静に、頬の上の派手な黒子をこちらに見せて、唇のあたりに妙な薄笑いのような表情を泛べながら仕事しているのを見ると、サイはいやな気持になった。一つ一つの図板のまわりから見えない渦が流れ出して作業室のなかをめぐっているようで、サイは、仕事に身がいれられなくなった。
 飛田のあとには、どんな伍長が来るだろう。サイにしろ、烏口へ墨汁のふくませかたから教えられた飛田と離れることは、何か普通の気持でないのであった。
 てる子が無邪気に、
「ああア私、何だか変な気分になっちゃった」
 定規を図板のむこうへ押しやるようにしながら、胸を反らしてその辺を見まわした。
「ねえ、何か御餞別あげなきゃわるいでしょう? みんな何あげるの?」
 返事をするものがなかった。
「みんなで羽二重の千人針こさったげましょうか」
「うるさいわよッ」
 弓子が疳癪声を出した。
「あとで、みんなして相談すればいいじゃありませんか」
 てる子のああア私と云った声も、それを叱りつけた弓子の声も、仲間うちにきこえる程度でのひそひそ声であった。作業時間のうちに話しすると、ひどくおこられた。
 シセンを越えるという語呂の
前へ 次へ
全45ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング