ての心次第であってみれば、嫁たるもの妻たるもののしたがう範囲は無際限といえる。子なき女は去るべしというのも、益軒として、実に奇妙と思える。人も知るとおり貝原益軒には有名な養生訓という本がある。いろいろ科学的には変なところがあるにしろ、養生という以上生理にふれているわけだのに、益軒は女が子供を持たない理由に夫の責任が過半であることを全く見ようとしていない。女一人の責任として、妾の存在を肯定している。時代の道徳というものの矛盾が、益軒の彼としてはまじめな態度をも、大局にはこのような矛盾においているのである。
「女は常に心遣いしてその身を堅く謹慎すべし朝早く起き夜は遅く寝ね昼は寝ずして家の内のことに心を用い云々」当時の男としてのこういう要求においても益軒は女のための養生訓の必要ということに思い及ぼうともしていない。女が子を持てなければ去るべし、といいながら、女の妊娠期間への注意、分娩や育児への忠言は与えず、「古の法にも女子を産ば三日床の下に臥さしむと云えり」という風である。
益軒の時代は、さっき触れたような商人擡頭の時代であって、歌舞、音曲、芝居なども流行をきわめ、上方あたりの成金の妻女は、あらゆる贅沢と放埒にふけった例もあった。西鶴の小説が語っているような有様であったから、近松の浄瑠璃が描き出しているような情の世界があふれていたから、それへの警告として、警世家の言葉として益軒の「女大学」をふくむ十訓があらわれたというのも一つの見かたではあろう。だが、近松の浄瑠璃にうたわれる女主人公たちの悲しい運命に涙をおとして当時の女がききほれたのは、ただ当時が華美で音曲一般が流行したからばかりではなかったろう。やはり、「女大学」が天下の至言として流布された、そのような社会のとざしのなかに生きなければならなかった女の切ない境遇、その悲劇が芸術化されたからこそ人々の袖をしぼらせたのであったと思う。
日本でこのような「女大学」が現れた十八世紀のイギリスでは、女のおかれている事情を自分たちの努力でましなものにしようとしてモンタギュー夫人が率先して、二世紀も後に日本へその名がつたわった「青鞜《ブルー・ストッキング》」がすでに組織された、ということも、何か私たちには忘れられない。
ところで、この益軒の「女大学」を、明治の偉大な啓蒙学者であった福沢諭吉が読んで、「女大学は古来女子社会の宝書と崇められ一般の教育に用いて女子を警しむるのみならず女子が此教に従って萎縮すればするほど男子の為めに便利なるゆえ男子の方が却て女大学の趣意を唱え以て自身の我儘を恣にせんとするもの多し。(中略)女子たるものは決して油断す可からず」と、熱烈周密なその「女大学評論」を著しているのは、今日顧みてまことにつきない感想を誘われる。日本の社会の習慣や男の生活を具体的に観察すれば、「我輩は女大学よりも寧ろ男大学の必要を感ずる者なり」という立場に立って、福沢諭吉は、十九ヵ条の一つ一つについて、反駁している。「女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のものなり」「男女を区別したるは女性の為に謀りて千載の憾《うらみ》と云うも可なり」そして、例えば「七去」についても、民法の条文を引用して、離婚が「女大学」にいわれているような条件で成り立つべきでないことを説明している。益軒の「女大学」は、あらゆるところで、女は夫に仕えて云々という表現をしているのだが、福沢諭吉の開化の心は、主従関係、身分の高下をあらわしたそういう表現が夫婦の間にあることに耐え得ない。「我輩の断じて許さざるところなり」「婦人をして柔和忍辱の此頂上にまで至らしめたるは上古蛮勇時代の遺風、殊に女大学の教訓その頂上に達したるの結果に外ならず」夫婦の生活で夫が妻を扶養するのは当然の義務だのに、妻たるものがわずかの美衣美食に飼い馴らされて人としての権利さえ自分から捨てている愚を、福沢諭吉は社会全体の進歩というところから痛歎している。「夫婦苦楽を共にするということは努々《ゆめゆめ》等閑《なおざり》にさるべきことではない」のだから、ことこれに関しては、議論して争うことも避けがたく「是れが為に凡俗の耳目を驚かすことあるも憚るに足らざるなり。」明治の精神が持っていた壮健な常識の響は福沢諭吉の言葉をとおして、これらの文章のうちにも高く鳴っているのである。
そもそも福沢諭吉が、「女大学」を読んで、それに疑問を抱き、手控えをはじめたのは、彼が二十五歳で大阪から江戸へ出て来たときからのことであった。明治五年に「学問のすすめ」を発表して、近代日本の誕生に、大きい光を投じた福沢諭吉が、この「女大学評論」と「新女大学」とを時事新報にのせたのは、漸《ようや》く明治三十二年、彼が六十八歳で歿する僅か二年前であったということは、日本の社会の歴史のどういう特
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