潔の問題にしろ、女の側からとして説かれている場合には、本質的に何と男の古い持ものを肯定した形で、良人の気持を理解する妻のかしこさとして出されているだろう。ここでは正面から議論する妻の真情は買われていない。おだやかにまとめる、それが女の機智と手腕とされているのだ。けれども、放蕩な良人をもつ妻が、敏捷に良人の気分を察して、今夜は芸者と遊びたいと思っていると見てとれば丸髷に結って純日本風の化粧をする。きょうはバアを恋しがっていると思えばいち早く洋装になって酒をすすめるために、遂にその良人は、酒場へ行っても「バアの酒は馬鹿らしくて高くて、しかも話相手の女は教養がない。チップをおくのがもったいない」と述懐して早々家へ戻るようになったという実例に、「一家の幸福を作ったいい例である。もしその変装夫人にしても、放蕩ずきの亭主に自分の勝手気ままな意志で対していたならば、あるいは既に結婚上の危機に見舞われていたかもしれない」といわれているのを読むとき、若い世代の心には、男女にかかわらず、それが家庭といえるものだろうかという疑問が当然おこると思う。女はそんなにまでして結婚を守らなければならないのだろうか。女の一生とは何であろう。
菊池寛氏の「新女大学」は日本の婦人のための高等教育の中途半端さを、文化全般の低さからもたらされる一つの不幸として見るよりも、多くの良人が「完成品を自分の妻とするよりもどちらかといえばまだ未完成品を妻として、それを自分の好みによって、自分の好きなような女性に作り上げてゆく方がはるかに楽しみで」あるという理由で、婦人に高い教育を必要としていないということも、注目される。女性尊重を男に向って説きつつも、男が好きなように作ってよいものとして女が基本的に提出されているとき、そこにどのような人格の五分五分がなり立とう。
今日の複雑な現実のなかで、男の生活感情も女の生活の実情もある面では遙にこの「新女大学」を溢れているのが実際だけれども、それにもかかわらず福沢諭吉が新人の友として高らかにうち鳴らした新しい生活への鐘の余韻が、今日の日本にこのようなものとして現れ得ているところに、私たちの痛切な関心をひく何ものかが隠されていると思う。
私たちやより若い世代が、「女大学」でもなく「男大学」でもない生活の本を、自身の生活で書こうと念願して生きている刻々のうちに、せめてはだれ[#「だれ」に傍点]切ってしまわない歴史の響きの幾分かをすこやかに息づかせたいものだと思う。[#地付き]〔一九四〇年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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