の上にトルコ女のように坐ったなり、両方の眉を上の方へ高く高くもち上げ、唇を丸めて下手な口笛でワルツを吹き出した。

        六

 次の週、宏子は家へ帰らなかった。その次の土曜が、丁度父親の誕生日であった。
 宏子は、途中で花屋へまわって茎の長い薔薇の花を買い、それを持って行った。
 玄関がしまっていた。ベルをならしたが誰も来ない。宏子は敷石の上に靴の踵の音をさせて、内庭の垣根沿いに台所の方へまわって見た。ゴミ箱のふたがあけっ放しになっていて、その下のところに黒い雑種の飼犬がねている。犬は宏子を見ると、寝そべったまま、房毛の重い尻尾を物懶《ものう》そうにふった。その途端女中部屋から、声をあわせて笑声が爆発した。宏子たちに物を云う時とはまるで違う、二重にわれたような手放しの笑声なのであった。
 宏子は、そんな声で笑った今の今、自分に対して急にとりつくろった発声で物云いをされるのが苦しかった。そのまま、炭小舎の横をまわって、庭の木戸をあけた。人影がない。庭へ立って、二階の方を見上げながら宏子は手を筒のようにして、
「アウーウ」
と大きく抑揚をつけ呼んで見た。順二郎もいないらしい。そこの硝子をあけて、宏子は家へ上った。台所へ行って、
「今晩お父様御飯におかえりなの」
と訊いた。泰造は、一昨日から山形の方へ出張しているのであった。
「母様は?」
「晩御飯におかえりになりますそうです」
 持って来た薔薇の花を、宏子は独りで活け、父の書斎へ持って行った。西洋間へ行ってレコードを暫くきいていた。それでも、宏子の心には何か落付かないものがある。宏子は、いつもより小さく緊ったような顔付をして、家じゅうをぶらついて歩いた。
 自分の部屋になっていた小部屋の襖をあけて見たら、そこは雨戸がしめきりで、積み上げられている帽子の古箱の形が朦朧《もうろう》と見えているばかりであった。客間の障子をあけて見て、宏子は、驚きを面にあらわした。いつの間にか実生で軒をしのぐ程斜かいに育っていたパジの若木の黄葉が石の上に散りかさなっている。それはよいとして、はじめは燈籠の下あたりにだけあったに相違ない低い笹が、根から根へひろがって、左手の円いあすなろう[#「あすなろう」に傍点]のところまで茂っている。冬がれのきざしで、それらの笹の葉は小さいなりに皆ふちが白ずんでいる。荒々しさが地べたから湧いて迫って来るような眺めである。
 宏子は、呻るような喉声を出して、腕組みをし、庭を眺め入った。子供だった時分のこの庭は、燈籠と楓との裏に狭い小石をしいた空地があり、茶室の前栽も檜葉がしげって、趣があった。自動車をつかうようになって、泰造は庭の仕切りを前へ押し出させたと同時に、庭は昔のような落付きをなくし、荒れはじめた。宏子は親たちの生活ぶりというものを考え、深い興味を感じた。彼等は、一時大勢になりそうであった子供たちのためや何かで、住居も明治三十何年かに買ったままの部分へ、どしどし新しく洋間だの二階だのをつぎ足さして行った。一つの家だが入口と奥とでは東洋と西洋との違いがあり、またその東洋式に様式のちがいがあり、二つある洋間はまたそれぞれこしらえられた年代によって、流儀がちがっている。必要のために、平気で父は庭をちぢめてしまっている。そこには、家の中におさまって磨き立てている趣味とは全く反対のもの、年から年へとうつりかわる自分たちの生活で家をつかんで持っているような、傍若無人さのような、精力的ながさつささえ感じられるのである。加賀山の人たちは生活力の旺盛な人々である。その熱気は宏子によく分った。だが、会うとあれ程よろこびで輝くような父が、誕生日を楽しんで宏子が祝おうと思っていることなど自分から忘れて、すっぽかして行ってしまったところ、母もすっぽかして留守にしているところ、そういう点で、宏子は何か両親とは一致し切れない感情の肌理をもっているのであった。
 なお、あっちこっちしていた宏子は、やがて入って来た廊下のところから、脱いだ時のまんま片方庭土の上へ倒れていた靴をはいて外へ出た。台所の外から声をかけた。
「夕飯にはかえりますからって――」
 宏子は、本屋へ行く気になったのであった。
 一高の横手の通りは、本郷を貫く横縦の通りの中でも最も不便で不愉快な路の一つである。宏子は、歩道のない路を行き交う自動車に悩まされながら、大通りへ出て、三丁目の方へ向って行った。本屋のある側にうつろうとして、宏子が車道の空くのを待っている時であった。むこうの側の車道をつづいて二三台来たタクシーの一番前の横窓から、ほんの一瞥母によく似た女の顔が目を掠めた。見直した時にその車は、もう遠のいてしまった。
 宏子は、本屋へ入ると、そのことなどは忘れて、少し上気せた顔付になり、熱中して見て行った。この前、手
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