くやっているよ。夕飯にはかえるはずだけれど……」
「達ちゃん手紙よこして?」
「ああこないだ順二郎のところへハガキをよこしたようだよ、仙台辺はもう大分朝晩さむいらしいよ」
欠伸《あくび》にならない欠伸を歯の奥でかみころしながらのような声の調子で、瑛子は、
「あのひとは、何ていうんだか、熱がないっていうものか、何しろ電気一点張りなんだから」
と、長男のことを云った。
鶴見の総持寺に在る墓地には、加賀山の四人の子供が祖父母の墓のよこに並んで埋められていた。その小さい墓碑の一つ一つの裏に瑛子は自分で和歌を書いて刻らせているのであった。
「何しろ、母様はこわい人だからね。おとなしければ、じりじりなさる人だし、余り熱があればあったでぶつかるんだし……わかっていらっしゃる? 自分で――」
「――どうも、そうらしいね」
瑛子は、濃い睫毛をしばたたき、年に合わせて驚くほど肌理《きめ》の艶やかな血色のよい頬に微かな満足気な亢奮を泛べた。
実の母娘の間にある独特な遠慮のない自然さ。それと絡みあって親密な一面があるだけに却って消えることのなく意識される二人の気質の異いから来る一種のぎごちなさ、間隔の感じは、夕方、父親の泰造が帰宅してやっとしんから自由な、団欒の空気の中に解きはなされた。玄関の方で耳なれた警笛が鳴ったのをききつけると、宏子は、
「そら、ダッちゃんのお帰りだ!」
短いソックスで畳の上をすべるような勢でかけ出した。もう、沓脱ぎ石へ片足をかけて靴の紐をといていた泰造は、紺の襞《ひだ》の深いスカートをふくらませたままそこへ膝をついた宏子を見ると、
「ヤア、来たね」
茶色のソフトをぬいで娘に手渡した。
「どうしたね」
「父様は? お忙しい?」
「泊ってくんだろう?」
「ええ」
「どうだ、何か御馳走が出来ましたか」
瑛子は、食堂のテーブルのところへ坐ったままで、娘の肩へ手をかけながら現れた良人に、おかえんなさい、と云った。瑛子は、永年の習慣で、朝は何かのはずみで送り出すことはあっても、帰って来た時玄関まで行って良人を出迎えるということは殆どしないのであった。
着換えの手つだいはこまこまと宏子が父親のまわりをまわってした。洗面所へもくっついて行った。泰造は、いかにも精力的に水しぶきをあげて顔を洗う。宏子は、側にタオルをもって立ちながら、
「あひるの行水ね」
と笑った。宏子は、父の洗顔がすむと、もう髭にも大分白いものの見える父親の顔がブラシの動きと一緒に映っている鏡の横から自分の喜々とした顔をのぞかせ、宏子はそこにある台から母の白粉をとってつけた。
食卓についても、順二郎が帰らなかった。
「どうだね、そろそろはじめちゃ」
「そうしましょう。じゃ、お給仕をして」
瑛子は、
「順二郎さんの分をさめないようにね、おかえりんなったらあっためてお上げ」
と、念を押した。
順二郎は、夕飯が七分通り終りかけた頃、制服姿で現れた。
「おそかったねえ、おなかがすいただろう。小枝や、さっきのをすぐあつくして」
中学校が古風なフランス人の経営で、生徒に運動をさせなかった、その故もあるのか、順二郎の背の高い体は、どっちかというとぼってりした肉付であった。鼻の下に柔かいぼんやり黒い陰翳《いんえい》がある丸顔には、青年らしいものと少年ぽいものと混りあってのこっている。特に、姉の宏子と同じように父親似で、くっきり山形のついた上唇の線は、彼の顔にあっても印象的な部分をなしているのであったが、その唇のところに彼の子供らしさは主としてのこっているのであった。
実際の内容はちっとも知っていないが、世馴れた概念で大まかにつかんだものの云いかたでドイツ語の進み工合を訊く父親の言葉、一品の皿も自分の愛情で味を濃くしてすすめるような母親の素振りを、順二郎は格別うるさそうにもせず、
「そう?」
「いや僕いらないよ」
などと、ゆったり、いかにも素直に受けこたえしている。
姉弟の間だけで話が弾みはじめた。
「ドイツ語って、やっぱり田沢さんとこへ行ってるの?」
順二郎が高校を受験するとき、準備して貰った独逸哲学出身の人のことであった。
「ちがう。田沢さんが紹介してくれたドイツ人、カフマンての」
「この頃でも田沢さんに会う?」
「うむ、ちょいちょい」
「やっぱり蒼くって、深刻そうにしている?」
ふ、ふ、ふと、悪戯《いたずら》そうに笑う宏子につれて順二郎も、ふっくりした顔を笑いにほころばした、ただ声だけは出さないで。
親たち夫婦の間には、また別箇な話題がすすんでおり、宏子は三井とか某々さんがとか、新聞でよむような人々の名を小耳に挾んだ。丁度姉弟の間で、ドイツ語の発音やエスペラントの話が盛になって来た時であった。築地の土地が、とさっきから没落した実家の処理について話していた母
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