あった。
「誰がいるのかと思ってびっくりした」
 思いがけなく、それは瑛子の声であった。宏子は、自分の書きかけていたものを、テーブルの上でそれとなく裏返し、振かえった。
「――寝てらしったんじゃないの?」
 瑛子は曖昧に、ああと云い、
「お前こそ、どうしたの? 寒くないかい」
 卓子によって来て見て、
「おや、何か書いてたんだね」
と云った。
「うん……何しろノーベル賞金だからね」
 まだ心の半分はあっちにある風で、宏子がそう答えた。瑛子は、どうして女に医学博士はあるのに文学博士は出ないだろう。お前も文学をやる位なら、ノーベル賞金をとる位の意気でおやり、とよく云っているのであった。
 瑛子は、娘の冗談に笑おうともせず、両方の袂を胸の前でかき合わせるようにしてストーヴの前のソファにかけた。浴衣をかさねた寝間着の裾が足袋の上にやや乱れかかっていて、古い棒縞糸織の羽織をきている。スタンドの遠い光線からも少しはずれると闇へとけ込む場所に、黙って腰かけている母の姿には、宏子の注意をひきつける、真実なものがあった。暫くその様子を眺めていて、宏子はやさしく、
「ストウヴつけましょうか」
と訊いた。
「そうだね」
 つづいて天井の燈をつけようとしたら、瑛子は、
「眩しいからおやめよ」
と止めた。母は涙をこぼして泣いているのではなかった。けれども、何か苦しそうである。心が苦しそうに思われる。その苦しさが肩や頸のあたりに現れている。それは、一種肉体的な苦痛の感じを宏子の中にもよびさますのであった。
「――眠れなかったの?」
「――お父様のやきもちには困ってしまう……」
 瑛子は、考えにとりこめられている口調で、床の上に目を落したまま云った。

        五

 駅はごく閑散で、たまに乗り降りする客の姿が、改札口からプラットフォームの上にまですいて見えるようなところであった。朝夕だけ、どっと混み合い、田舎っぽいバスが頻りに駅前を出たり止ったりした。そして、一つの学校の遠足のような趣に、同じような年頃の、同じような通学服姿の女学生達の、おとなしい、だが圧力のこもった波をその辺に溢れさせた。その時刻がすぎると、バスまでも緊張をゆるめ、僅かの乗客を車内にいれて、かるい後部をのんきにふりながら、短い駅前の町を抜け、軽鋪装をほどこされた道を桑畑と雑木林の間へ進んで行った。
 町を出てからは、塾の前に停留場があるきりであった。近辺には人家がない。一本道を更に余っぽど進んだころ、畑中に赤いエナメル塗の看板を下げた自転車屋の新開の店が目に入り、バスは右に折れた。そこで左右に年経た欅、樫、杉の大木が鬱蒼と茂り、石垣の上に黒板塀、太い門柱には改良蚕種販売、純種鶏飼養販売などの看板の出た川越街道へ合するのであった。
 この街道の古風な、用心ぶかい表情は、洋服を着た四百人ほどの娘が営んでいる生活とは全く没交渉であるように見えた。僅に地主の次男が出した文具店が一軒あり、その店からは主家に非常ベルがついていた。古くからの駐在所も角にあり、紫メリンス着物に白エプロンをした細君が、縞の敷布団を裏の空地で竹竿にほしているのが、往還から見えた。そういう界隈にまでは、塾の鐘の音も響かないのであった。
 二日の休みの後なので、月曜は、どことなくちがった気分がある。発音記号での書取りの時間に、宏子はその機械的な録音作業をいつもより沢山間違えた。
「ミス・加賀山、私はあなたがもっと注意ぶかく出来るのを知っていますよ」
 栗色の服を着たミス・ソーヤーに云われた。時間が終ると、隣りの席にいる杉登誉子が、
「あんた、きょう|青い月曜日《ブルー・マンデエイ》ね」
 小さく赤い唇で、秋田訛を云った。宏子は、唇をへの字のようにしてうんうんと頷き、連立って図書室の方へ行った。廊下の突当りの迫持《せりもち》窓から一杯の西日がさし込んでいる。そこで、はる子を中心に三四人かたまっていた。
「あなたどこんところ使うの? かち合っちゃうと駄目だから」
「あら、私そこをねらってたのに……」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
 ぷっつり切った髪の切口を青いスウェータアの背中で西日にチカチカさせながら、忍び声をして押しあっている。宏子が近づくと、はる子は黙って手にもっていた本の表紙を伏せて見せた。何とかいう文学士の「詩歌にあらわれた自然観」という題であった。宏子は首をすくめた。
 学生に一番苦手なのは英作文の宿題であった。こまると、誰かが日本文の種本を見つけたのを、ひっぱりあってところどころ利用して翻訳し、間に合わせることがあった。外国人の教師は日本語の本はよまなかったから、通用しているのであった。
 宏子は、図書室へ入り窓際のところに坐って、暫く仕事をした。帰りかけると、はなれた机にいた登誉子もその様子を見て一緒に出て来た。

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