スクが置かれている。うしろの壁にオリーヴ色の絹を張った硝子戸つきの本棚があり、今、狭い室の内を照し出した電燈の白い笠には、眩しいと見えて、ノートの紙を丁寧に長方形に截ったのが短く下げられてある。
 宏子は閾のところへ立ったまま、
「少しさむいけど、落付くね」
と、珍しげに四辺を眺めた。電燈を紐でひっぱってある鴨居の釘のところに、スケッチ板に油で描いた曇天の海浜の絵が額縁なしに立ててある。デスクから目をあげた時いい位置ではあるが、宏子にはその絵の灰色と淡い黄と朱の配色が寂しく思われた。
「その絵だれの?」
「さあ、よく分らないけれど和訓さんのじゃない?」
「北向なんだから、もっと暖い色のを見つけりゃいいのに。――あるんだろう? 探せば」
「刺戟が少ない方がいいから、これでいい」
 宏子は、隅によせかけてあった古い三脚椅子を見つけて、その上に腰かけた。
 自分用の廻転椅子に姿勢よくかけた順二郎の顔は灯の真下にある。宏子はすこし翳《かげ》をうけて、ずっと低いところにその顔を浮き出さしている。おそ生れと早生れの二つ違いである姉弟の顔だちは、そうやって一つ灯の下に並んだところを見ると、その間におのずから微妙な違いがあった。同じような丸顔で、同じように特色のある上唇の線をもっていながら、順二郎の表情全体には快活さにかかわらずどことなく奥へ引こもった印象が漂っていた。宏子の碧っぽく澄んだ眼や口許には、見たいものは見、云いたいことは云わして欲しいというような一種熱っぽいものが、さっぱりした皮膚の血行とともに湛えられているのであった。今晩は、宏子のその眼の裡に苦しげな色がある。
 ノートや辞書がきちんと整理され、デスクの向板のところには高校の時間表を細長い紙に書いて貼りつけてある有様を宏子はしげしげと眺めていたが、
「順ちゃんは几帳面だなあ」
と、歎息と感服とを交えたような声で云った。そして、
「ね、順ちゃん」
 弟の顔を見上げ、訊ねた。
「あなた何故寄宿へ入らないの?」
 順二郎は、体の大きさに合わしてどっちかというと子供っぽすぎて見える柄の紺絣の膝をゆすりながら、
「――家から通えるんだもん」
「そりゃそうだけどさ――順ちゃんは寮生活をして見たいとは思わない」
「特別やって見たいとは思わない」
 宏子は暫く黙って、自分の断った髪のうしろを撫でていたが、
「私はそとへ出てよかったと思う」
 はっきりとした調子で云った。
「自分が生れて、育って来た中にばっかりいたんじゃ、そこがどういうところか見えないもん――私はその点で大変よかったと思ってるわ」
 宏子の顔に、幾分遠慮がちな、しかし知りたい気持を制しかねる表情があらわれた。
「順ちゃんのようなひとは、これまで一遍も家から出たいなんて思ったことはないのかしら……ここの生活がそんなに自分と調和してる? そこが私には不思議なの」
「どっからどこまで調和してるなんて、そんなことないさ。だって……」
 言葉をかえて、順二郎は続けた。
「そんなこと云や寮だって同じじゃない? やっぱり人間がいるんだもん――僕、場所より自分の気持が主だと思う」
「じゃあね、順ちゃん、こういうことはどう? 順ちゃんは東京高等へ入ったお祝に、あんな温室をこしらえて貰ったわね。そういうことはどう考えてる? そういう扱い、そういう扱いをされている自分、それをどう考えている?」
 順二郎は灯の下で首をねじって、凝っと自分に注がれている姉の眼を見まもった。やや暫くして、低い沈痛なところのある声で、
「そんなに悪いことだろうか」
とききかえした。宏子は、愛情と歯がゆさとが交り合って、苦しく自分の胸の中に沸るのを感じた。
「悪いって――善悪という言葉のまんま悪いって云えるかどうかしらないけど、とにかく、そういうことは、この社会では千に一にもない特別なことだけは確かだ。そういう特別な温室、生活の温室の中に順ちゃんがいることも確かだ。あの温室を建てた金で月四五十円稼ぐ人間が、女房、子供をくわして、ざっと一年半暮せるよ」
 なお、姉の顔から視線をはなさず、順二郎は、
「僕あの温室についてそういうことはこれまで考えたことなかった」
 素直に、余り謙遜にそう云ったので、宏子は、この自分より遙かに大きい体をした弟が可哀想のようになった。宏子は、慰め、はげますように云った。
「順ちゃんが正しく暮したいと思っている気持は実によくわかってるさ。ねえ、だけれども……」
 そう云っているうちに、宏子はまた一つの疑問に出会い、自分ながらびっくりしたような眼の動かしようをした。
「順ちゃん、学校のグループには入ってないの?」
 簡単率直に訊いた。
「学生のやってる……。そういうもの勿論在るんだろう?」
 すると、順二郎は微に口元の表情をかえ、再び膝をゆすり始めた。

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