塾の前に停留場があるきりであった。近辺には人家がない。一本道を更に余っぽど進んだころ、畑中に赤いエナメル塗の看板を下げた自転車屋の新開の店が目に入り、バスは右に折れた。そこで左右に年経た欅、樫、杉の大木が鬱蒼と茂り、石垣の上に黒板塀、太い門柱には改良蚕種販売、純種鶏飼養販売などの看板の出た川越街道へ合するのであった。
この街道の古風な、用心ぶかい表情は、洋服を着た四百人ほどの娘が営んでいる生活とは全く没交渉であるように見えた。僅に地主の次男が出した文具店が一軒あり、その店からは主家に非常ベルがついていた。古くからの駐在所も角にあり、紫メリンス着物に白エプロンをした細君が、縞の敷布団を裏の空地で竹竿にほしているのが、往還から見えた。そういう界隈にまでは、塾の鐘の音も響かないのであった。
二日の休みの後なので、月曜は、どことなくちがった気分がある。発音記号での書取りの時間に、宏子はその機械的な録音作業をいつもより沢山間違えた。
「ミス・加賀山、私はあなたがもっと注意ぶかく出来るのを知っていますよ」
栗色の服を着たミス・ソーヤーに云われた。時間が終ると、隣りの席にいる杉登誉子が、
「あんた、きょう|青い月曜日《ブルー・マンデエイ》ね」
小さく赤い唇で、秋田訛を云った。宏子は、唇をへの字のようにしてうんうんと頷き、連立って図書室の方へ行った。廊下の突当りの迫持《せりもち》窓から一杯の西日がさし込んでいる。そこで、はる子を中心に三四人かたまっていた。
「あなたどこんところ使うの? かち合っちゃうと駄目だから」
「あら、私そこをねらってたのに……」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
ぷっつり切った髪の切口を青いスウェータアの背中で西日にチカチカさせながら、忍び声をして押しあっている。宏子が近づくと、はる子は黙って手にもっていた本の表紙を伏せて見せた。何とかいう文学士の「詩歌にあらわれた自然観」という題であった。宏子は首をすくめた。
学生に一番苦手なのは英作文の宿題であった。こまると、誰かが日本文の種本を見つけたのを、ひっぱりあってところどころ利用して翻訳し、間に合わせることがあった。外国人の教師は日本語の本はよまなかったから、通用しているのであった。
宏子は、図書室へ入り窓際のところに坐って、暫く仕事をした。帰りかけると、はなれた机にいた登誉子もその様子を見て一緒に出て来た。
前へ
次へ
全26ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング