言葉があり、よりつよい意味での要請――ことわりにくいほど命令のニュアンスがふくまれた要請の場合には、はっきりとトゥレヴォワーチというもう一つの言葉があることを、彼らが執拗であると同じ根気づよさで、率直にくりかえし主張してよかったのではないでしょうか。
 ところが、彼は答えました。「要請というのは哲学で云えばカントの実践理性の要請という特別の言葉であって」云々と。粗暴な狼たちは、このアキレス腱めがけて、菅氏にとびかかり、かんでかんで、遂に彼の勇気を、かみちぎってしまいました。

 不幸な菅氏は、その良心と正義感と、勇気にかかわらず、自身が客観的なよりどころとし得る単純明白なリアリティーの上に、しっかりと脚をかためて立つ、たたかいの技術を知っていませんでした。彼がたたかわなければならなかった、社会の現実と、彼の理性と真実の観念的な運営法との間に、ギャップがあったのでした。
 菅氏の意味ふかい生のたたかいと死によって、ある人々は、長いものにはまかれろ、という屈従の倫理を思いおこしたかもしれません。けれども、より多くの人たちは、自身の良心と理性の問題として、それはいかに表現され、いかにたたかわれてゆくべきかについて考えさせられました。

 現代は、万事がおそろしいほど政治的にとり扱われる時代である。これは、現代における世界的な実感の一つです。二つの世界大戦を経て、地球上には、より新しい民主勢力が拡大し、人類の理性は、ますます苛烈な実践をもとめられ試煉を経つつあります。

 人類の理性の集積は、精煉に精煉を重ねて、つみあげられてゆくものです。理性が理性であることを証明するためには、あらゆる歴史の世代が、当面する非理性的な力、無知と権力の暴力とたたかって来ました。そして、それらの暴力はいかに兇暴であるようでも、歴史の長い過程においては、遂に一時的なものでしかあり得ないことを実証しています。

 だからこそ、ヒューマニティーによる、理性の不屈従に、高貴な行動的意義があります。不滅の勝利があります。

 二十世紀の現代においては、理性がいかに永続的に、且つ現実的に操作されうるかという能力にこそ、歴史の勝敗がかかっている。理性擁護の行動そのものがもし万一にも性急で持久性を欠くならば、そのような行動の方式は、理性の本質にとって適切でないというリアリティーによって、われわれは思いしらされなければならないでしょう。

 幾千の若い僚友よ
 わたくしは、こんにち病気のために、ここに立って、親しく話すことのできないのを残念に思います。しかし、日本の良心のため、学問の自由のため、そして、日本の理性をまもるために、わたしたちはこんにちまでともに何事もして来なかったと云えるでしょうか。
 文学が、ヒューマニティーに立つものであり、歴史の発展とともに歩むものであることを知っているすべての良心ある文学者たちは、たとえ、その人々の発言が、こんにちここできかれないとしても、日本の理性の守りのためには、常に諸君とともにあります。[#地付き]〔一九五一年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「学生評論」
   1951(昭和26)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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