き事態のおこることもあるでしょう。行きすぎとか誤解とか、ことのはずみ、というものは社会生活のどこにもありがちなことです。若い世代に対する糺弾者であり、われわれ自身の老いることを欲しない良心の蹂躙者である権力に向って、わたしは心から次の質問をします。学問の自由、良心の自由、理性の自由をまもろうという動機に立つ学生の運動を、ノン・ポリティカルであるべしと宣伝する人々自体が、なぜ、現実の学生の動きに対しては、このようにも極度に政治的であるのか、と。こんにち、学生運動に集中されている攻撃の性質は、ことしの四月六日、菅季治氏を死なせた衆議院の特別調査委員会をホーフツさせます。

「要請」という一つの文字の解釈のワナにかかって生命を絶たなければならなかった菅季治氏の悲劇を、ただ、彼の性格の弱さであると見るのは、浅薄ではないでしょうか。

 菅氏の性格は相当粘りづよくあったようだし、意志が普通よりもよわかったとも思われない。彼を生き難くさせたのは、彼が理性と真実とについて抱いていた観念の内容と構成とが、権力の動員した、権謀の詭弁との格闘に堪えなかったからでありました。

 四月二十三日の週刊朝日「菅証人はなぜ自殺したか」という記事は、特別調査委員会における速記録の一部をのせて、この悲劇の核心を照し出しています。

 委員たちが、菅氏にしつこく、くい下った質問は、どれも常識をはずれたいいがかり[#「いいがかり」に傍点]と、威脅でした。ひとこと、ひとことが、菅氏を予定のワナに近づけるための政治的挑発でした。菅氏も、それは感じていた。しかし、彼はその悪辣さと非条理とがあからさまな質問に対して、一歩も彼のホーム・グラウンドから進撃することが出来ませんでした。すなわち、菅氏は、形而上学によって整理・構成されている自分の理性、過去の形式論理にしたがって操作される自身の理性の機能を、たたかいの現実にしたがって拡大することも出来なかったし、縮小させることも出来なかったのでした。
 自由党の委員篠田が、問題の「ナデーエッツァ」という言葉にからんで、この言葉を要請と訳すことは、ロシア語としてできませんかと質問したとき、菅氏の答えた答えこそ、彼の悲劇の本質を示しています。菅氏は通訳として、その限度の中での証人として、証人台に立ったのです。菅氏は、ロシア語の実際として、要請には、プロシェーニェという別の
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