だろう。
明治以来の文化の成長は未だ封建を脱皮しきっていなくて、日本の社会と家庭の生活における少年たち少女たちの存在は、自分を一人の人間として明瞭に自覚することを非常におくらされて来ている。青年期にずっと近づいて初めて自分の周囲に対する目と心とを開かれる。そのことから作家たちが稚く若い日の心の成長の苦悩を描こうとする場合にも、現れるのは青年時代の姿ということになる。社会に封建の力がつよければつよいほど自分というものの人間性の自覚は、生理の成長よりずっとおそく精神の上に辛くも開花するのが例である。徳永直の「他人の中」は、いくらかゴーリキイのあとを追った筆致であるが、山本有三の「路傍の石」とともに境遇的描写の範囲で少年の生活の苦渋を描いている。
二三年前、坪田譲治などの子供の世界を描いた作品が流行したことがあった。が、あの時代の作品でも、稚さから若さに発展しようとする人間の肉体と精神とが、今日の現実のうちに遭遇する種々様々の困難にまでふれて描き出そうとした作品はほとんどなくて、おおかたは大人の心がそこに休安を見出すよすがとして工合よく配置された稚い世界を扱った作品であったことも忘れられない。
欧州の文学の中でさえ、境遇の条件との関係では受身におかれて描かれている若い娘たち少女たちの内的生活が、日本の近代文学の中では果して少女小説からいくら歩み出して扱われているだろう。再び、細井和喜蔵の著書が念頭に浮んで来る。あのようにして挫折する夥しい若い生命の声は、どんな作品のなかに反響しているだろう。
心理分析の手法で、少女から若い娘にうつる微妙な時期の嫉妬やあてどのない愛のもだえを扱った映画は、フランスやドイツに現れていて、日本でもその模倣めいた試みがされているけれども、今までのところは情緒的な雰囲気の味が目ざされていて、そこには、社会の因習に揉まれつつ、それに抗して一個の女性として形成されてゆく精神の成長の過程を描くような厳粛な努力は払われていないのである。窪川稲子の「素足の娘」は、単に境遇の条件とのたたかいの範囲にとどまらずに人間として何かを求めて成長しようとしている少女から若い娘への推移のある時期を描いた数すくない婦人作家の作品のうちの一つである。
樋口一葉の「たけくらべ」は吉原という独特な環境にある少年少女の稚い恋を描いた近代古典として有名であるし、まぎれもなく
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