行動の規準となるものをもっていないことなどが感じられる。
 現代の若い男女のおかれている時代的な境遇というものを洞察して、その脈管にふれて多難な人生行路の上に力づけ、豊富にされた経験と分析とで、若い時代の生活建設に助力しようとする熱意からの恋愛論は、残念ながら少なすぎる。ある主観的な点の強調からの恋愛論やその反駁、さもなければ、筆者自身が大いに自身の趣好にしたがって恋愛的雰囲気のうちに心愉しく漫歩して、あの小路、この細道をもと、煙草をくゆらすように連綿とみずから味っている恋愛論である。
 私は一人の読者として、心に消すことのできない一つの疑問を抱いている。今日、本当に自分たちの生活を現実に即して考え、さまざまの困難に向いあっていて、しかも勇気を振ってそれを突破してゆかなければ結局生きようはない境遇におかれている若い男女が、はたして、これらの恋愛についての議論や講義の中に、自分たちの生涯の問題がとりあげられ語られているという切実なものを感じ得るであろうか。恋愛論という見出しを見て私の心にすぐくるのは深いこの疑問である。

 恋愛とか結婚とかの問題は、きわめて人生的な性質のものである。それぞれの個人の性格、境遇が綜合的にほんの小さく見える偶然にまで作用して来るのだが、やはり時代というものが押し出している強い一つの共通性というものがある。
 同じ恋愛についての新しい認識、方向が求められるにしろ、時代は過去においてそれぞれの性格を示した。明治初年の開化期の男女は、政治において男女同等の自由民権を主張したとおり、急進的に男女の自由な相互の選択を主張した。自由結婚という言葉が、この時代の人々の行動を通して今日までつたわって来ている。
 日本におけるこの時代は非常に短く、それは近代資本主義日本の特性を語るのであるが、憲法発布頃から、恋愛や結婚についての一般の考えかたが、ある点逆もどりした。婦人の進歩性というのは、当時の社会の指導力が進んでゆこうとしていた方向を理解し、それをたすけ、ついて来るだけの能力を女も持たなければ不便であるというところに限界をおかれた。恋愛や結婚についても、それに準じて、親の利害に反対しない範囲で、ひとに選んで貰った対手と、婚約時代には交際もするという程度のところが穏当とされたのであった。
 藤村や晶子が盛にロマンティックな詩で愛の美しさ、愛し合う男女の結合
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