く自信がないようになったということも、昨今では決して無くはないだろうと想像される。
それらの娘さんたちの若い想像力は、そうなったフランスにも自分たちのような娘がどっさりいて、彼女たちはどんな心持で自分たちの遭遇しなければならない歴史のめぐり合わせを生き抜こうとしているかというところ迄思いめぐらしているだろうか。そういう人生と歴史との波瀾そのものが人生であると知って、そこに沈着に愛と思慮とを失わずに生きて、その困難さに於ても、建設の努力においても、より高まろうとする人間性のひきつぎ手として自分の娘としての日々を暮してゆく。そういう一貫性が日本の娘さんにも無くてはならないし、無くては自分がやってもゆけない時に来ているのだと思える。
今日の若い娘が、もしああもこうも考える力をもっていると云うならば、その考える力を輾転反側の動力として空転《からまわ》りさせないで、考える力をあつめて、生涯を貫く一つの何かの力として身につけなければ意味ないと思う。娘時代の絶えず求める心が描いているままの形で実現されないと知ると、今度はそれを全然思いすててしまうのが、これ迄の娘の習慣のようになっている。そういう根の弱い敗北はもうくりかえされなくていいことだと思う。娘は何のためにその母より二十年二十何年若い世代としてこの世に送り出されて来ているのだろう。娘の心の摸索と苦しみとは何のために経験されているのだろう。やがてあきらめて自分にも忘れられてしまうために、その思いに沈んだ夜の幾時かをすごしているのだろうか。
私たちは、どんなことにしろ、そのものの意味を知らなければ、それを大切にしたり愛したりすることは出来ない。現実を理解しなければ、それを愛し、そこに働きかけてゆく人間の歴代の努力のうけつぎ手として今日生きているよろこびや感動を味うことも出来ない。知は愛の母、というレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉は真実にふれている。現実を知るということと、現実はこんなものだと分るということとは全く別である。こんなものなら、どうして現実はこんなものとしてしか現れないか、こんなものである現実に飽かず何故人間は営々と努力しているか、そこにまでふれて理解しなければなるまい。周囲の世相が急流のように迅ければ迅いほど、私たちの知識や理解力は深められなければ、やって行けなくなって来ていると思う。
ひところ若い娘の美容法の一くさりに、眼の美しい表情は程よい読書と頭脳の集中された活動によってもたらされる、ということが云われた時代があった。今ではこれも長閑《のどか》な昔がたりのようにきこえる。若い娘の知力は、ただあれもこれも知っているという皮相のところから、もっと沈潜した生活力と一つものと成って、生きる自信のよりどころとなることを求められている時代だと思う。真に人間らしい情感のゆたかさや装飾のない質素な生活のうちに溢れる気品を保って生きることは、たやすいことではない。生活から逃避することで、それらは得られない時代だと思う。雄々しく現実の複雑さいっぱいを、自分としての生活の建て前で判断し、整理し、働きかける筋をつかみ、そこから湧く生活の弾力ある艶が、若い女の明日の新しい美ともなるのだろう。
今日の若い娘は女の歴史的な成長の意味からも当面しているたくさんの問題から自分だけは身を躱《かわ》す目先の利口さを倫理とすべきではないと思う。[#地付き]〔一九四〇年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
1940(昭和15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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