女がずっとそうであって大変結構だということとはおのずから別であろうと思われる。求める心の一つの表現として、本を読みたい心がないといわれるのでは、心のどんな必然から小説が書き出されて来るかという訝しさも生じるわけなのである。
この『煉瓦女工』と『娘時代』とは、作者の環境として貧富のちがいが極めて著しい。だが、私たちの関心がひかれるのはそういう偶然の貧富の単純な対照ではなくて、この二人の娘さんたちが、それぞれの意味で自分の環境内に立てこもっていて、互が互の社会的な存在を感情の領域のうちにとりこんでいない点では全く似かよっていることに就てである。
鶴見界隈の部落生活で、人々の動き、声、次々のできごと、その消え行く姿などは四六時中、若い野沢富美子の感受性を休みなく刺戟しているに違いない。生活は裏も表もいわば見とおしで、その具体性というものが自然にこの小説家の大きい力となっているのは事実である。現在までは、「本当に運のわるい自分の家」というだけの感想でそれとたたかい生き、その中から作品もかいて来ているこの若い作家が、将来、真によりひろい視野から自分の境遇をも見て、その境遇を計らず自分一人が脱したというばかりではない理解と圧力と人間らしい誇りをもって、文学化してゆくためには、現象から現象へと目へ筆がついてゆく範囲の具体性では足りないことを、親切な指導者と読者たちとは知っているであろうと思う。
大迫さんにしろその周囲の中では有能な一人の娘さんであることは確だし、野沢富美子という人の文筆上の才も将来に期待したい力を暗示している。
この二様の筆者たちが、時代的な一つの傾向である環境への我とも知らぬ安易な封鎖から真に成長しぬけて来た時こそ、彼女たちの文才は新しい世代のよろこびとなり得るのだと思う。
[#地付き]〔一九四〇年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「新女苑」
1940(昭和15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング