つかわないとか、そんなことまで条件に入って来て、男児安産の電報をもらって大いにあわてた。まだ、名の方が決定していなかったのである。
 暢気《のんき》なような責任の重いような気持で、紙の上へいくつも名を書いて眺めながら、私はしみじみ日本の習俗が、男の子と女の子とを区別して来た意味の大きさを感じなおす心持だった。
 男の児の名が何だかむずかしいのは、その家にとって最初の男の子というものにかけている周囲の心持の反映だと思うのであった。おばあさんはおばあさんなりに、若い父親は父親なりに、もし男の子が生れたら、という瞬間の気持にこめている内容は、もし女だったらばという期待と決して決して同じでないから、ひとりでに、名もむつかしくなって来るのにちがいない。
 名前を考えるのがそんなに骨が折れるのは、まだ生れていもしない、従って人間としての性格も見当つけようもないような男の子という観念をめぐって、周囲の者がそれぞれの心で考えられるいろいろさまざまの社会生活の可能、ひろがりを思い描くから、変につかみどころなくむずかしくなって来る。
 女の赤ちゃん、と思ったとき、ぐるりの心に映る内容は何と単純だろう。女の児というと、もうそう生れたということにあるところまでの結論が現れているようで、名もやさしく自然につけられてゆくようなところがある。
 それでいながら、女の一生の現実はどうかといえば、女として自分の生涯が平安に保証されていると何人がいい切れるだろう。こうやって、いい結婚生活に入って、丈夫で風邪もひかない男の児をもって、迎えられ送られていた一家の明暮から、思いがけず良人を喪うという不可抗の不幸もおこって来る。そして、決定的にその女のひとの日々はそのことから変ってしまうのである。健気《けなげ》に立派にのこされた子を守り育て終おせたとしても、その間にひそかにその女のひとの頬を流れおちた涙は、そのひとの心に痕をのこさないということはない。
 この間、母子寮に暮している洋子ちゃんという十歳の女の子が、よその男につれまわされて、幸い無事に発見されたという事件があった。その当時、帝大の教育学の助教授が批評をして、母親だけで育つ子供のこうむる特別な精神上の傾向をその子も持っているために、そういう事件もおこったと世人の注意を喚起していた。
 その談話は、その面で正当なことが語られているのではあるが、女とし
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