な根のない廃頽に咲いているかを感じるのは当然と思う。それよりは、家庭にしっかり足をおいてゆける婦人をと望むのは自然であり健全でもある。
 しかしながら、その青年がひどく簡単に女のインテリ型と家庭的という二つをわけてしまって自分も安心している心理の、現代的なありようはどういうことであろうか。家庭的な女を妻に求めている現代の青年として自分のそのような心をちっとも自分では見ていないで対手だけを見ての要求としていっている、その気持のきめ[#「きめ」に傍点]の荒さに、今日の社会や文化のきめ[#「きめ」に傍点]の荒さがいかにもまざまざと反映しているように思われる。いうところのインテリ型というものと家庭的というものと、その二つの要素が女にとって別々のものではないではないかという程度の凝視もこの青年は試みていない。自分の外で移り変ってゆく風俗をでも語るように語っていて、自分の望みは理想なのか実際の便法なのか、その区分の自覚もされていない。要求そのものとしてはいかにもはっきりとしていて、しかもその要求をめぐってゆく心は何となし厚皮していて怠惰だという現代の低い心理を、青年のために悲しむのは私が作家だからばかりではないと思う。
 若い女のひとが結婚の相手として、先ず経済上の安定をもち出して、共稼ぎをしてやって行こうというよりは、この物価の高いとき五十円六十円では赤坊も育てては行かれないと、妙につよく主張する心持の底にも、その程度までは目があいて来てしかもそれから先のことは見えずに止って、情をこわくしている女の今日の低さがある。
 さっきの青年が家庭的な若い婦人を、という場合、月給袋の重さで笑顔のちがうような心理の今日の若い女も、自分を候補としておしすすめて来るのは明らかだ。家庭的ということも、ある種の女の心理の底では、男を働き蜂のように見る冷酷さに至っていることを、さっきの青年は知っているだろうか。そして、現代の目先の不安に追われている若い女の心のなかで家庭というものがますます愛の表現としてよりは、日常の安定の台として見られる傾向をつよめていることも見のがせない。家庭というものの本質の崩壊が案外こういう底流によって導かれる。若い世代は結婚への自分の理想を持ちなおすように鼓舞されなければならないと思う。[#地付き]〔一九四〇年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社

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