の「党生活者」という小説が再版されるようになったが、その中に、その小説の主人公である青年闘士が女の同情者、そして愛人と同棲生活をして、困難を経てゆくことが書かれている。ある種の人々はそれについて共産党員の間にはハウスキーパーという一つの制度があって、自分達の便利のために女性をあらゆる意味で踏台にした、という批評をしている。今日、これは大変に不思議ないいかただと思う。
 非合法であった時代に、警視庁が党生活にたいする逆宣伝として新聞に書きたてさせた、その言葉を、今日の知識人とか批評家とかいう人が、鵜呑みにして平気でそれをくりかえすのに驚ろかされる。
 なぜなら、その人達はそういう事実を自分で一つも経験していないにもかかわらず、事実かどうかをきわめようとしていない。こういう社会的真実にたいする追求の怠慢は、知性そのものの不純潔性である。
 私自身の生活の経験を考えてみて、身辺のたれそれの生活を考えてみて、ハウスキーパーの「制度」などは決してなかった。ハウスキーパーという名のもとに女性を全く非人間的に扱ったのは公判廷で自白しているとおり警視庁から入ったスパイの大泉兼蔵などであった。熊沢みつ子という若い婦人闘士は、ほんとうに大泉が共産主義者であり党の中央委員であると信じて、そのいうことを信頼して活動をたすけ、献身して人民解放のために努力しているつもりであった。ところが、大泉が本職のスパイであることが発見された時、熊沢みつ子は非常に苦しんだ。自分の人間的な善意が裏切られたことに苦しみつくして、とうとう獄中で自殺した。だが大泉は平気で生きている。こういう非人間的な行動を逆に共産主義者へのそしりとして、ハウスキーパー制度というものがあった、というようにいっている。
 同志の間に愛情問題が起り、結婚生活にも入ることがあるのは自然だし、これからもあることであるが、しかし、その結合を破壊し、おどかし、ちりぢりにさせたのも治安維持法であった。婦人の社会的活動の面が拡がるにつれて、社会認識の上でつながりのない結婚はますます減ってゆく。そこに共通な社会的地盤の上に立つ男女の純潔さがあり愛情の純潔さえも一層強固に保たれてゆく可能があると思う。
 愛するものがあってもなくても、人間一人として、一人の女として、また一人の男として、どういう生き方をつらぬきたいと願っているか。その願いで結ばれて、互いの愛で励まし合える時に、愛の純潔ということ、結婚生活の純潔性ということも実現するのではなかろうか。
 男同士の信頼による友情の純潔性、女同士の深い友愛の結合も、根本には一人一人がそれぞれに自分の足でこの人生をしゃんと歩ける人間になりたい、ということが基礎である。[#地付き]〔一九四七年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人朝日」
   1947(昭和22)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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