衆追随でないことは、全く明らかなことです。
 日本のプロレタリア文学運動を指導してきた、創作における唯物弁証法的方法のスローガンは、プロレタリア文学理論の発展して来た過程で必然な根源の上に提起されたものでした。半封建的なブルジョア文学との闘争とプロレタリア文学運動発展の途上において、世界の現実を見る、より社会的政治的な発展的な目を作家に与えた点、静的な自然主義的リアリズムから社会発展の方向においてのリアリズムを理解させた点、無視することはできない歴史的成果をあげています。同時に一方、その機械的適用があったことをも見逃してはならない。今日の段階に立って見れば、このスローガンには哲学上の規定をそのままもって来ている点から、創作の実際とぴったりしないところがあって、プロレタリア作家に、むしろ不明瞭で窮屈な感じを与えていた点を指摘しなければならない。こういうような成果と欠陥との厳密な自己批判に立って、日本のわれわれもソヴェト同盟によって提唱されている社会主義的リアリズムの問題に関する国際的討論に参加するのであって、現在一部に現れているような理解、即ち、そら見たことか、創作における唯物弁証法的方法のスローガンなんぞは全く誤謬であった、したがって、プロレタリア文学の階級性の主張も誤っていたのだ、という考え方はプロレタリア文学運動のそれぞれの段階を、全体的な発展の上に見ることのできない清算主義的な態度であるし、またプロレタリアートの歴史的任務そのものの抹殺であると思います。
 日本において、直ちに社会主義的リアリズムというスローガンをそのまま適用し得るかどうかということは、活溌な大衆的討論によって決定されるべき点でしょう。
 社会主義的リアリズムの問題の提起は、ソヴェト同盟を先頭として国際的プロレタリアートの勢力がますます結集されつつあること、また、各国の広汎な大衆がプロレタリアートの革命に協力する可能性が画期的に高揚してきていることを示す深刻な事業であると思います。これは、プロレタリア文学に関するあれやこれやの問題の一つではない。全プロレタリアートの戦線の前進として、その文学運動が推し進められる基本的発展のまじめな一環であると思います。[#地付き]〔一九三三年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文化集団」
   1933(昭和8)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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