な事実を、日本の一部ではそれなら当然なこととして判断のなかに摂取してゆかないような一種の風がある。そんな習慣にしろ日本の文化の世界的には未熟なある性格がそこに語られているのであると思う。
国民文学について様々の論議があるのだが、それを私たちの文学の実感として感じとろうとするとき、この映画についての場合とそっくりそのままではないけれど、どこか共通のような、何となしまだしん底から湧き出て来る水脈に触れていない心持がある。
国民文学と呼ばれるからには、その作品が本当に日本の私たちの刻々の生のなかから生れたものであると感じさせる魅力と同感とを湛えているものでなければならない。深い美しさをもっていなければならない。私たちは生活というものを知っている、その精神でよまれて、そこに嘘のないことの感じられる意味で、真実のこもったものでなくてはならない。
こう考えて来ると、すべての作家たちは、これらの課題がつまりは全く根本的な文学そのものの生ける課題であって、その達成をめざして、めいめいにこれ迄も努力し、或は迷って来てもいたのだと思うしかないのだろうと思う。
国民の文学と呼ぶに足るものが其々のジャンルによって幾通りか生れ出て来るためには、人々の精神や神経のなかで文学がまともに置かれようとして、そこに腰が据えられてゆかなければならないのだろう。
この間高見順氏が文学は非力なものではあるがと、獅子と鼠とのたとえ話で非力なもののおのずからな力を語っていられた。
しかし、今日私たちが文学を語る時、どうして、一応は文学とはちがうものの強力との比較の上で非力なるものとしての文学として語らなければならないのだろう。文学に健全さが求められているならば、先ず文学そのものの存在が平明にその自然さで真情的な位置におかれて扱われなくてはならないのではないだろうか。このことは旧い用語での芸術至上の考えかたとは別である。
文学について、じっくりと生活に根ざし、痙攣的でない感覚と通念とがどんなに必要となっているかは、私たち皆の胆に銘じて来ていることだし、今日文学を読む千万人が感じている国民的真実の一つであると思う。[#地付き]〔一九四一年六月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
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