さに対する自然として強調された。何故ならば、十九世紀中葉までの過去の社会で、文学をつくり、文学を愛好する人々の層は、いわゆる中流以上の有識人の間に限られていた。有識人たちの日暮しは、直接自分の肉体で自然と取組みもしないし、野心満々たる企業家でもなかった。一種の批評家として、あるいは当時の支配的社会勢力の理論化のための活動家としての役割である。
 近代工業が勃興して、大工場が増加し、そこに働く労働者とその家族の数が、この世界に殖えて来るにつれて、文学における自然はこれまでにない相貌によって描かれるようになって来た。これまでの文学とその作者の日常生活の中では目に入れられなかった大都会のはしはしの、不潔な、日夜雑沓し、工場の黒煙濛々たる労働者街の自然、激しい汗を流させる労働の対象としての自然が、その息苦しい、だがバルザックを恐怖させた底力をもって、歴史を自身の肩で押しすすめながら出現して来たのである。例えばゾラの小説に描かれているように。
 自然の描写が、我が日本文学の中で、どのように推移しているかということは、われわれの深い興味をよびおこすのである。万葉集の中にうたわれている大らかな明るい
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