語っている。同じ時代に発表されたロシア作家の作品でも、「赤色親衛隊」などのもっている諸要素は、セラフィモヴィチと全く反対の調子のものであり、作者フールマノフの南方的でない気質を示していることが見られるのである。
ところで、現実について観察を進めてゆくと、自然と人間との交錯の関係は、以上にのべただけの単純な地理的な相互的影響に止まらず、更に人間の側から猛烈な積極性が働きかけられることが見られる。人間は自然の一部として地球の上に棲息しているのではあるが、その生存意欲によって、人間の生活の進歩と豊富化のためには、山を河に変え、水を火に換えている。人間社会と自然とは、人間による自然力の最大な受用、制御、生産力への転換としての関係にある。そこで、人間社会の構成が生産手段の進歩、複雑化するにつれて、同じ人間であっても、直接、体でもって自然と組打ち、泥にまびれ、水にぬれ、坑にもぐって働かねばならない者と、それらの労働の結果に生れた利益だけを物質的に、精神的に利用して、自身の手は傷めず生活する者とがあらわれて来る。
自然に対する感情の社会性、階級性というものの文学以前の分岐点は、ここに根を置いているのである。
今日は雨が降っている。窓によって外を眺めると、田圃の稲の青々と繁ったところに、蓑笠つけて一人の農夫が濡れながら鍬をかついで歩いてゆく。その姿を一幅の風景画と見たてて、ああ、いい景色だとだけ眺め得る人もあるであろう。その人々は、自分で雨にぬれる必要がないから、雨中労働をしなければならない農夫の感情がどうであろうかとは直接考えられない。同時に、稲のできばえによって、年貢の上り高がちがう地主が、自己の利害の打算から、その季節と雨とが作物に及ぼす関係を敏感に計算する、その感情の生々しさも理解し得ないであろう。
同じ雨の朝を、登校する小学生のすべてが、同じ感情で眺めるであろうか? ゆとりのある家の子供である一郎は、雨がふっているのを見てひどく勇み立った。何故ならば、一郎はこの間誕生日の祝いにいいゴム長を一足買って貰った。雨がふったから今日こそあれをはいてこう! そう思って一郎には雨がうれしいのであるが、一郎の家の崖下の三吉のところでは、全然ちがった光景が展開されている。三吉は、上り口のかまちに腰をかけて、ゴム長の片っ方を手にとり、しきりに困っている。兄ちゃんのお下りであるそのゴ
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング