た男の兄弟たちに代って若い妻の肩にかけられているようなばあい、自由ということはなんでしょう。この間新聞に、通称ママといわれる売笑婦が焼跡の空きビルで屍体となって発見されたという記事がありました。世界には有名なゾラの小説でナナという売笑婦がありました。ミミという売笑婦もいました。ルルという女もいます。同じ字を二つ重ねた売笑婦の愛嬌のある呼び名は、世界にどっさりあります。けれども、母親という――ママという通称の売笑婦があったことは聞きません。しかしそれはわたしどものこの日本の東京にあって、そして殺されたのか死んだのか、屍体となって発見されました。その女は三人の子供を持っています。どれも小さい子供のようでした。誰がその子供を食べさせるでしょう。売笑婦は売笑によってその子供を養っていたのです。父親はどうしたのでしょう。逃げたのでしょうか。戦が多くの男を殺しているのですから殺された男の中に入っているかも知れません。
あの朝の新聞を何千人の婦人たちが見たか知らないけれども、通称ママの死はわたしたちに深い深い感銘を与えます。自分の人生からこのようなママであるママを否定します。この日本にこのようにして子供の母親であるママが生きなければならないということも否定します。否定しうる条件がこの社会に作られなければなりません。みんながこのことに無関係ではないのですから。
婦人代議士たちは立候補したときなんど繰返して「女は女のために」といったでしょう。わたしたちはこの言葉を少しちがえて考えたいと思います。「女は女のために」というような一段高いところからおためごかしのことをいうほど、わたしたち日本の婦人の生活は安易なものではありません。すべての婦人がほんとうに自分たちのために、ほんとうに自分たちの未来の幸福のために、生活の細目にわたって充分理解し社会との関係を掴み、そこで発展的に問題を解決してゆく鍵を見出す本気の心持がわいてきていると思います。
自覚というようなことは虹ではありません。あるとき降った夕立のあとに暫くは美しく空にかかるだけのものではありません。自覚という言葉は教会の鐘の音でもありません。いろいろな折に鳴りひびいて、そして消えるだけの鐘の音ではありません。それはわたしたちの鼓動のようなものでしょう。わたしたちのなかにあります。そしてわたしたちを活かし、わたしたちの血液を運び人生
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