い、やや浅黒い、額の心持よく緊張した顔立ちの若い先生は、第一瞥から暖い心情的な感じで若い生徒たちを魅した。多い髪がいくらか重そうにゆったりと結われているところも、胸元がゆったりとしているところも、動作の線がのびやかなのも、みんな生徒たちをよろこばせた。
それが、千葉安良先生であった。学校の空気には、抑えても溢れる若さに共感をもつような要素にかけていた。情緒のうるおわされるものがなかった生徒たちは、おそらく一人のこらずと云っていいくらい、千葉先生には好意をもったと思う。千葉先生は毎朝の体操のときに水色メリンスのたすきをかけた。すると、級のなかに、同じようなメリンスのたすきをこしらえて、丁度千葉先生がそれを結んだように房さりと結んでかけていたひとがあった。何日か経ったら、級の担任の女先生から、生徒一同が叱られた。この頃、誰の真似だか知りませんが、変にずるずると髪をまいたり、大きいたすきをかけたりなさる方があるようですが、みっともないからおやめなさい。
少くとも一つだけの愉しみは学校にも在るようになった。私は級で一番の前列だったから、まるで自分ひとりがそのめずらしい人間らしい心持のする先生とさし向いでいるような集注で、西洋史の時間をすごした。千葉先生の歴史は、歴史というものが複雑多岐なる人間交渉をめぐって展開されることを私たちに教え、一つの事件の結果は、結果そのものがもう次の出来ごとの原因となってゆくような、物事のいきさつを描き出して示した。そのことは、私に、いろいろな身のまわりの出来ごと、自分の心の中の出来ごとにも、やはり辿るべき原因やその結果があるのだということを明瞭にした。
千葉先生には、何もわかっていなかっただろうが、私としては、この興味のふかい西洋史の時間のおかげで、自分の渾沌世界に、どうやら整理をつけるおぼろげな筋道を与えられたのであった。
千葉先生が熱心に教えられるその眼を見ると、感動が心に湧いた。その眼は、私たち若いものの善意を信頼して真率な光にみちていた。詮策ぽく細められてもいないし、厳しく見据えられてもいない。それは本当に心の窓という風で、私はそこから偶然自分に向って注がれる視線にあうと、さあっと暖い血汐が体の中を流れるように感じた。そして、自分のもっているいい心を自分で信じて生きて行っていいのだということ、そのためには骨折りを惜しんではならないのだ、という真面目な鼓舞を感じるのであった。
四年になってから、もう一人、やはり人間らしい真直な気持よい視線で生徒を見る先生が出来た。堺先生と云って国語の先生であった。この先生も、曇りない真実のある眼で、国語の時間は張合があった。何をどうとも云えないが、面白いという思いがその先生と自分との間を交流するようで、私はいつも謹んで一生懸命であった。
五年生になって、千葉先生は教育をうけもたれ、心理学の講義がはじまった。ごく初歩の概論だったにちがいないけれども、この学課の興味は全く私を熱中させた。初めてここで、学校で学ぶことと自分の生活全体の関心とが相通じる一点を持ったようで、私の文学的読書も段々奥ゆきをもちはじめた。その頃はもう「白樺」の影響とトルストーイの作品が私の成長の糧で、千葉先生には、課外の読書のことで放課後、たまに三十分ぐらい話を伺うようになった。
先生は、いろいろのことを考慮してであったろうが、余り私的なことや感情問題にはふれず、単純に本の話をされた。そして、その本の選択については、年だとか女生徒だとかいうことにかまわず、いきなりこちらの知識慾の理解力とにたよって、教えられた。一つの本からひき出された新しい興味によって、又その方へ読書をひろげてゆくという風で、小説のほかのいろんな啓蒙的な科学・哲学の本をよむことが出来た。
今思えば、貴重なのは決して、そうやって読んだ何冊かの本の知識ではなかった。一人の人間の裡にある可能を十分にのばそうとする千葉先生の偏見のない若々しい誠意が、私のうちのまともなものを急速に、よろこび躍るように育てて行ったのだと思われる。
それには千葉先生が担任でなくて、一定の距離と自由のある位置にいられたこともよかったのだろうし、また、若い娘の感情に通暁していて、常にある程度は整理した心持で、甘えず信頼することを学ぶようにされたことも、よかったのだろう。
女学校の最後の一年は、女学生らしくなかったとしても、本質的には実に勤勉によく暮した。著しい成長の時期であった。
女学校がすんで、目白の日本女子大の英文科の予科に一学期ほどいて、やめた後だったと思う。千葉先生と河崎なつ先生とが、桑田芳蔵博士の教室で心理学の勉強をされたとき私を仲間に加えて下すったことがあった。ヴントの本で、一寸した実験もやったりして、その本の終るまで通った。今日あ
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