赤坊の世話は自分で出来ないで看護婦がした。その看護婦は離れた室にいることだし、商売になれすぎてもいて、夜なかにし少し赤坊が泣くぐらいのことでは、なかなか目をさまさない。それが母の心配になるので、お前は目ざといから、と私が赤子と看護婦のわきに臥かされた。弱くて到頭育ちかねたその赤子は一夜のうちに幾度か泣いて、泣くと容易にしずまりかねた。三度に一度は、むし暑い蚊帳の中で泣きしきる赤坊を抱いて歩いているうちに、やがて朝になってしまうこともある。
 そういう夜なか、さては頭の痛い昼間、種々雑多な疑問が苦しく心にせめかけた。うちでも学校でも、大人の世界は奇妙で、そこにある眼はむこうからばかり都合のいいようにこちらに向けられているように感じられる。たとえば、どこの親でも何心なく云うように、母も何か訓戒めいた場合には、今日まで生んで育ててくれた親の恩ということについて云うのであったが、それは内心の問いかえしなしに娘にはきかれなかった。親たちとしてこちらに向う態度にかさなって、漠然としかし鋭く夫婦というものの理解しがたい営みが娘にはまざまざと迫っていて、そう云われるとき、焙《や》きつくような切なさで毎晩自分が抱く赤子の誕生が考えられた。あんなに争い、そして、子供がうまれてゆく。恩とはどういうものなのだろうか。
 学校では三人仲よしがあったけれども、そんなことは迚も話しあえなかった。苦しいけれども悲しいのではないその気持。更につきつめればその苦しさにさえ云いあらわせない生の歓びが脈うって胸にこみあげて来るような息苦しい心持を、果してどうあらわしたらよかっただろう。
 女学校の学課はその混乱に対して全く何の力もなかった。大正初めのその頃文学好きな人は殆どみんな読んだワイルドの作品だのポウだの、武者小路実篤の書いたものを手に入る片はじから熱心に読み、自分から書くものはと云えば、手に負えない内心の有様とはかかわりない他愛のない物語だったことも、精神が不平均に芽立ちむらがったその年頃の自然だったのだと思われる。
 四年生になると女学校では西洋歴史を習う。初めての時間、西洋史の先生が教室に入って来られた時、三十二人だったかの全生徒の感情を、愕きと嬉しさとでうち靡かせるようなざわめきがあった。
 その女学校の女先生が制服のように着ていたくすんだ紫の羽織をつけただけは同じだが、その脊ののびのびと高
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