した。私も笑わざるを得なかった。彼のクローム腕時計はクロノメータア・ミリカという名をもっているのであったが、ミリカとは何の意味か、夏になるとそれは一日三十分ほどおくれる時計であった。冬になると同じ位きまって進んだ。その時分は寒かったから、何時? ときくと、サア、俺の時計では何時だよ、と答えなければならない有様だった。私は暫く躊躇したが、じゃ、なくさないで。そう云って、彼の皮紐に私のその時計をつけ、クロノメータア・ミリカへ、細い黒リボンとルネサン風の模様をうち出した止金とをうつした。
 そうして二ヵ月ばかり経った。
 ところが、私達の生活は外的な事情から急変して、私の良人とその手頸についたアンリー・ブランの時計とは、共に私の日常の視野から消え去ってしまった。
 そして、二年と八ヵ月の日と夜とが経過した。私が、髪の蓬々とのびている彼に窮屈な場所で会うことが出来るようになった時、俺の所持品はどうしたい? 時計はどうしたい、戻したか、ときいた。
 これが所持品全部だと私に渡されたのは、何も入っていない茶皮のポートフォリオと、背広と、鼻からしたたったらしい血のしみのついたシャツと靴だけであった。
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