その子と一寸よって、私はやがて電車で下宿へかえりかかった。夜十一時頃であったろうか。その混んだ電車の中で、その子に、私は自分の小さい茶皮のハンドバッグをかっぱらわれたのであった。
 私は、ありがとうだの、今日は、だのという慇懃な挨拶の言葉はロシア語で云うことが出来たが、かっ払いだの、泥棒! と絶叫することなどは知らなかった。ベルリッツのロシア語教課書に、そのような言葉はなかったのであった。私は日本語で思わず、畜生! と口走って人ごみをかきわけたが、やっと出口まで辿りついた時どこにもその小僧の素ばしっこい姿は見当らない。こうして私は第三回目に時計を失ったのである。
 その時の秋、宮島幹之助氏がジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]への途中モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へよられた。宮島氏と父とは同郷であり、親しかったので、私は自分の下宿へ、この国際連盟委員を招待し、アルコールランプで、鶏のすきやきをこしらえ、馬車に並んでのって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市中見物のお伴をした。とり[#「とり」に傍点]は大変かたかった。
 正月、大使館のひとに逢ったらジェネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の宮島氏からことづかったものがあると、一つの小さい紙包みを渡された。あけて見たら、白い四角い箱が出て、中の薄紙には、アンリー・ブランの金の時計が入っている。私は意外でうれしいのと恐縮したのとで、顔を赤くした。「蛙の目玉」の著者は、あなたでも小僧にかっぱらわれる位抜けたところがあるのが面白いから、この間のとり[#「とり」に傍点]のお礼にあげます、と書いていられるのであった。
 計らず手に入ったこの腕時計を私は重宝し、無事息災に五年間もっていた。たまには手頸につけたり、多くの時はハンドバッグに入れたりして。出来のよいのに当ったと見えて、この時計は殆ど進んだりおくれたりしたことがなかった。その正確さを私は深く愛していたのであった。
 三二年の二月に私は結婚した。或る晩、風がつよく吹いて、小さい二階をゆるがすような宵、私共は机を挟んで坐っていて、その机の上においた時計の話が出た。さっぱりしているし、ちっとも狂わないから好きさ、と私は云って、ガラスの面を拭いた。良人が、いいねと手にとって眺めていたが、僕にかしておくれなと云った。僕のはホラあれだろうと笑い出した。私も笑わざるを得なかった。彼のクローム腕時計はクロノメータア・ミリカという名をもっているのであったが、ミリカとは何の意味か、夏になるとそれは一日三十分ほどおくれる時計であった。冬になると同じ位きまって進んだ。その時分は寒かったから、何時? ときくと、サア、俺の時計では何時だよ、と答えなければならない有様だった。私は暫く躊躇したが、じゃ、なくさないで。そう云って、彼の皮紐に私のその時計をつけ、クロノメータア・ミリカへ、細い黒リボンとルネサン風の模様をうち出した止金とをうつした。
 そうして二ヵ月ばかり経った。
 ところが、私達の生活は外的な事情から急変して、私の良人とその手頸についたアンリー・ブランの時計とは、共に私の日常の視野から消え去ってしまった。
 そして、二年と八ヵ月の日と夜とが経過した。私が、髪の蓬々とのびている彼に窮屈な場所で会うことが出来るようになった時、俺の所持品はどうしたい? 時計はどうしたい、戻したか、ときいた。
 これが所持品全部だと私に渡されたのは、何も入っていない茶皮のポートフォリオと、背広と、鼻からしたたったらしい血のしみのついたシャツと靴だけであった。財布も文房具もアンリー・ブランもないのであった。だが、彼は、はっきりと固有名詞を云って、それらの人間が、どこそこであの時計を俺の手からはずして机のひき出しに入れた、かえして貰え、いろいろの記念であるからと云った。私も、取戻したく思い、一通りその手続きをした。役人は、品物はないから、金で弁償する、その書類を出せというのであるが、その手続その他いろいろ厄介である上、まして、金で貰って何とするかというのが私の心であり、手続は打切り、私の心に深い憎悪がのこされてある。その時計のことなど跡白波となってしまうであろうと思った者の気持のいきさつが、にくらしいのである。
 一九三五年の二月十三日、私の誕生日の祝いに、父が精工社の柱時計を買ってくれた。これは私が自分からたのんだものであった。父の家の台所に美人の絵のついたボンボン時計がかかっていて、それは私の生れる前からのものであった。柱時計なら、なくなることもないであろう。そう思って、私は柱時計をたのんだ。父はどちらかというと、ごくありふれた形の十円内外のものをくれた。それは上落合に私が独り暮していた家の柱にかかって働いていたが、五月の或る朝、私のとこ
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