か持たないと信じます。
 私たちが弓子さんの現実から汲みとり得る唯一の教訓は、弓子さんのように生きるなと云うことであって、破局の形式に衝撃されて、全く浪費されてしまった若い一婦人の生命に対して私たちの感じる健康な憤りを、純情などという砂糖をかけた言葉で包むことは、愚かなことです。

 私は、自身一人の妻として、複雑な現実の間に良人に対する一筋の情熱をもって生きている女としてこれらのことを書きながら、心に或るつよい疑問をよびさまされました。
 現代の社会では殆ど国際的に何故このように所謂《いわゆる》純情が探索され、憧憬され、しかもその純情なるものが社会発展の歴史から見た場合、消極的な意味を多くもつ形態で発露されたときにだけ、様々の感歎の的になるのであろうか。疑問というのはそのことなのです。
 例えば、世評の高かった映画「夢見る唇」の魅力はどこにあったでしょう。「にんじん」は、挫かれひしがれた純情で観客の心を打ったのではなかったろうか? 何故、若者の心はそのようなものに惹きつけられるのでしょう。
 今日、社会の機構が我々の純情をすらりと活かしきれないものとなって来ていることは、生活の根本的不安をかもす経済事情の悪化を見ても、明瞭です。
 娘、愛人、妻として生きる女の今日の一生は種々の不如意に制約され、一人の女が自分のもつすべての魅力、智慧、真率さをそのまま愛するものを愛して幸福に生きたいという欲望の実現に生かし切ることは、非常に大きい割合で不可能になって来ている。
 その悲しみはすべての男女の心にある。もし私達が、現実の重みに屈せず、生きる権利とともに初発的な人類の権利であるより幸福な人間らしい生活への具体的探求をつづけ、その探求を生活で行為してゆくとすれば、それは形態として、何等かの意味での闘争でなければならないでしょう。私共は生きる以上、生物として先ず気温との闘争からはじまる、諸種の社会生活における闘争を無自覚ながらやっている。それが、上にのべた場合には自覚され、目的のきめられた闘争として考えられ、行動に組織されるようにならざるを得ないのです。
 ところで、ここに到ると、私はもう数万の読者の間にある認めがたい、微妙なざわめきの起るのを感じます。それは、私だって幸福は求めるけれど――だって……。ねえ。ざわめきの内容はそう私語している。
 私には、この囁きがよく聴える。だから、自身生かしきれぬ純な情感に苦しむとき、その無力と躊躇と昏迷した考えをてきぱきと解明して、後からつよく押し出すものよりは、音楽にしろ、映画にしろ、小説にしろ、あるままの生活の感情を認めて、一緒にたゆたって、ほのかになって、眠らしてくれるものの方が抵抗力の弱いものには楽です。そして、それ等の作品の土台となる社会の現実の多様な面から、そのような傾向性を強調し、とり出して来ようとする。
 楽な方向へクッションのある方へ方へと体をずりこますことで、一層日の光にも堪えぬものとなってゆくのです。
 私は賢しこい読者に多くを云わず、或る方々は全集の装幀が華やかだから購読なさるであろうバルザックの作品の中から、一つの文句をとり出そうと思います。バルザックはこういう意味を結論した。「民衆と女とは、吾々の平和のために圧えておかなければならぬものだ。そのために女に美衣を惜しんではならず、民衆には宗教を与える必要がある」と。[#地付き]〔一九三四年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
   1934(昭和9)年12月号
※「東京朝日新聞」1934年10月23日号に、「純情美談」と題して掲載された二つの事件に対する見解。「婦人画報」編集部の求めによる。
一つは、許嫁の死後、遺体に晴れ着を着せて結婚式を挙げた「事件」。「夫」は、博士論文提出中の、医大助手であった。
もう一件は、肺病で逝った恋仲の従弟を、初七日に追った、少女の自殺事件。事業に失敗していた父は、同居する無名画家の従弟の部屋に、娘が入ることを許さなかった。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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