非人間的であり、どちらもモラルをもっていない。このヒューマニティーをもたない二つの巨大な力と力との結合こそ、そして、後者の前者の支配こそこんにち人類社会に破滅的な暴力・脅迫としてあらわれている。
 したがって、世界平和と原子兵器禁止の課題は、インヒューマンな資本力が科学力を支配することに対して、現代のヒューマニティーが勝利しなければならないという課題である。ヒューマニティーがより拡大して、特に人間の理性が、現実の諸現象に対してより人間生活にとって合理的な判断に立って実践し得るように、高められなければならないという課題である。文学はこれらすべてのヒューマニティーの問題にかかわっている。人間社会の多数者が自らの現実を処理してゆくヒューマニスティックな能力の問題として、文学者も政治にふれて行くように。
 平和と原子兵器禁止については、アフリカの字を知らない原住民まで、指紋を署名がわりに支持している。カンタベリー僧正ヒューレッド・ジョンソン氏から、アフリカの原住民までを貫く、この平和と原爆禁止の要求こそ、現代のヒューマニティーの叫びである。文学がヒューマニティーの最も身近な表現であるということは、文学者こそ科学者とともに平和と原爆禁止のための発言者であるべきことを当然とする。「原子爆弾をフットボールのようにもてあそばせてはならない」この真理は、エレンブルグがいうばかりでなく、エディンバラで開かれようとしている、国際ペンクラブの年次大会でも、そこに集るそれぞれの国の文学者たちによってつよく声明されるであろう。日本から行った阿部知二、北村喜八の両氏はこんどこそ、かつて島崎藤村がヴェノスアイレスのペンクラブ大会へ行ったときのようには振舞わないだろう。藤村は世界の文学者がこぞって反ファシズムの文化闘争を決議したその大会で、終始、日本の文学者として反ファシズムへの態度を明瞭にしなかった。日本の文学者として、日本と世界のヒューマニティーに対する自己の責任を回避した。阿部・北村両氏は、日本の文学者とその読者である知識人、労働者すべてからの信任状を負うて出発したはずである。
 六月二十五日、朝鮮に動乱がひきおこされてから、日本のジャーナリズム、新聞、ラジオなどの上で平和と原爆禁止についての発言は、何となし「こうなっては、仕方がない」という風に扱われはじめた。「平和」はいつもいつもある特定の
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