れて聞いていた私は、「為めに全市に亙って戒厳令を敷き」と云う文句を耳にすると、俄かにぞっとするような恐怖を感じた。五つか六つの時、孫の薬とりに行った老婆が、電信柱に結びつけられ兵隊に剣付鉄砲で刺殺されたと云う、日比谷の焼打ちの時か何かの風聞を小耳に挟んで以来、戒厳令と云うことは、私に何とも云えない暗澹と惨虐さとを暗示するのだ。私は、一時に四方の薄暗さと冷気が身にこたえる涼台の上で、堅唾《かたず》をのんで、報道を聞いた。どんな田舎の新聞でも、戒厳令を敷いたことまで誤報はしまい。そうすれば、どんなに軽く見積っても、昨日の十二時以後東京はその非常手段を必要とするだけ険悪な擾乱にあることだけは確だ。
私の思いは、忽ち父の上に飛んだ。父の事務所は、丸の内の仲通りにある。時刻が時刻だから多忙な彼は、どんな処にいて、災害に遭ったか知れないのだ。心を落つけ欹《そばだ》てるようにし、何か魂を通りすぎる感じを掴もうとしたが、一向凶徴らしいときめきは生じない。次に、弟はどうしたろうと思った。彼は夏休以前から病気で、恢復期に向った為め、小田原か大磯、或は鎌倉に行っていたかもしれない。其等の地方は、この号外に
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