どは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用を足したのだそうだ。そして、何心なくひょいと下を覗くと、確に人間の足が、いそいで引込んだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たと云うのである。
 初め冗談だと思った皆も、其人が余り真剣なので、ひどく不安になり始めた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、全くそんな事がないとは云われない。万一事実とすれば、此処にいる数十人が、命の瀬戸際にあると云うことになる。不安が募るにつれ、非常警報器を引けと云う者まで出た。駅の構内に入る為めに、列車が暫く野っぱの真中で徐行し始めた時には、乗客は殆ど総立ちになった。何か異様が起った。今こそ危いと云う感が一同の胸を貫き、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
 停車した追分駅では、消防夫が、抜刀で、列車の下を捜索した。暫く見廻って、
「いない。いない」
と云う声が列車の内外でした。それで気が緩もうとすると、前方で、突然、
「いた! いた!」
とけたたましい叫びが起った。次いで、ワーッと云う物凄い鬨声《ときのこえ》をあげ、何かを停車場の外へ追いかけ始めた。
 観
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