私の覚え書
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)階子《はしご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
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 九月一日、私は福井県の良人の郷里にいた。朝は、よく晴れた、むし暑い天気であった。九時頃から例によって二階と階下とに別れ、一区切り仕事をし、やや疲れを感じたので、ぼんやり窓から外の風景を眺めていると、いきなり家中が、ゆさゆさと大きく一二度揺れた。おや地震か、と思う間もなく、震動は急に力を増し、地面の下から衝きあげてはぐいぐい揺ぶるように、建物を軋ませて募って来る。
 これは大きい、と思うと私は反射的に机の前から立上った。そして、皆のいる階下に行こうとし、階子《はしご》口まで来はしたが、揺れが劇しいので、到底足を下せたものではない。田舎の階子段は東京のと違い、ただ踏板をかけてあるばかりなので、此処に下そうとするとグラグラと揺れ、後の隙間から滑り落ちそうで、どうにも思い切って降りられない。私は、其儘其処に立ち竦んで仕舞った。
 階下では、良人が「大丈夫! 大丈夫!」と呼びながら、廊下を此方に来る足音がする。私共は、階子の上と下とで、驚いた顔を見合わせた。が、まだ揺れはひどいので、彼が昇って来る訳にもゆかず、自分が降るわけにも行かない。ゆさゆさと来る毎に私は、恐ろしさを堪えて手を握りしめ、彼は、後の庭から空を見るようにしては、「大丈夫、大丈夫」を繰返す。揺り返しの間を見、私は、いそいで階子を降りた。居間のところへ来て見ると、丁度昼飯に集っていた家内じゅうの者が、皆、渋をふき込んだ廊下に出て立っている。顔を見合わせても口を利くものはない。全身の注意を集注した様子で、凝《じ》っと揺れの鎮るのを待っている。階下に来て見て、始めて私は四辺に異様な響が満ちているのに気がついた。樹木の多いせいか、大きなササラでもすり合わせるような、さっさっさっさっと云う無気味な戦ぎが、津波のように遠くの方から寄せて来ると一緒に、ミシミシミシ柱を鳴して揺れて来る。
 廊下に立ったまま、それでも大分落付いて私は、天井や壁を見廻した。床の間などには砂壁が少し落ちたらしいが、損所はない。その中、不図、私の目は、机の上にある良人の懐中時計の上に落ちた。蓋なしのその時計は、明るい正午の光線で金色の縁を輝やかせながら、きっちり十二時三分過ぎを示している。真白い面に鮮やかな黒字で書かれた数字や、短針長針が、狭い角度で互に開いていた形が、奇妙にはっきり印象に遺った。驚いて、一寸ぼんやりした揚句なので却って時計の鮮明な文字が、特殊な感銘を与えたのだろう。
 知ろうともしなかった此時間の記憶は後になって、意外に興味ある話題になった、何故なら、東京であの大震は十一時五十八分に起ったと認められている。ところが当時大船のステーションの汽車の中にい、やっと倒れそうな体を足で踏張り支えていた私の弟は、確に十二時十五分過頃始ったと云う。鎌倉から来た人々もその刻限に一致した。其故、私の見た時計に大した狂いのなかったことを信ずるなら、東京に近く、震源地に近い湘南地方の方が逆に遅れて、強く感じたと云うことになるのである。
 その日は、一日、揺り返しが続き、私は二階と下とを往来して暮してしまった。一度おどかされたので、又強くなりはしまいかと、揺れると落付いていられない。皆も、近年にない強震だと愕いた。けれども、真逆《まさか》東京にあれ程のことが起っていようとは夢想するどころではなかった。何にしろ福井辺では七月の下旬に雨が降ったきり、九月一日まで、一箇月以上一度の驟雨さえ見ないと云う乾きようであった。人々は農作物の為めに一雫の雨でもと待ち焦れている。二百十日が翌日に迫っていたので、この地震は天候の変化する前触れとし、寧ろ歓迎した位なのであった。果して、午後四時頃から天気が変り、烈しい東南風が吹き始めた。大粒な雨さえ、バラバラとかかって来る。夜になると、月のない闇空に、黒い入道雲が走り、白山山脈の彼方で、真赤な稲妻の閃くのが見えた。
 夜中に、二度ばかり、可なり強い地震で眼を醒された。然し、愈々《いよいよ》夜が明けると、二百十日は案外平穏なことがわかった。前夜の烈風はやんで、しとしとと落付いた雨が降っている。人々は、その雨の嬉しさにすっかり昨日の地震のことなどは忘れた。彼等は楽しそうに納屋から蓑をとり出した。そして、露のたまった稲の葉を戦がせながら、田圃の水廻りに出かける。夕方になると、その雨もあがった。
 葡萄棚の下に拵えた私共の涼台に、すぐ薄縁の敷るほどの雨量しかなかった。其れにしても、久しぶりで
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